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Tokugawa (会話 | 投稿記録)
輸送船団ではない
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| date = [[文禄]]元年([[1592年]])[[5月7日]]・[[5月8日|8日]]
| place = [[巨済島]]玉浦
| result = 26隻朝鮮水軍日本輸送船団の破壊勝利
| combatant1 = 日本軍
| combatant2 = 朝鮮軍
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'''玉浦の戦い'''(ぎょくほのたたかい、朝鮮読みで玉浦はオクポ)は、[[文禄の役]]における海戦の一つ。
[[文禄]]元年([[1592年]])5月7日に、朝鮮の[[巨済島]]の[[玉浦]]において、[[李舜臣]]、[[李億祺]]、[[元均]]らの率いる朝鮮水軍が日本の輸送船団をした戦い。
 
== 戦闘経過 ==
朝鮮水軍の全羅道左水使[[李舜臣]]は地元漁船と偵察船の情報網により、日本軍の動きの情報を得ていた。1592年5月5日(陰暦)の早朝、李舜臣と全羅道右水使[[李億祺]]は[[板屋船]]24隻、小さな軍船15隻、および小舟(漁船など)46隻を率いて、日没までには[[慶尚道]]の水域に入った。
 
明けて6日、全羅道水軍は慶尚道右水使[[元均]]の艦隊との会合地点に向かい、7日になって元均の艦隊と会合し、合わせて91隻の艦隊となり、[[巨済島]]を迂回して[[加徳島]]を目指したが、偵察船が巨済島の[[玉浦(朝鮮)|玉浦]]港に50隻の日本船を発見、朝鮮軍は碇泊中の日本輸送船団に対し[[砲撃]]を加えた。不意を打たれた日本船団は、輸送船であり各個に武装があるわけでもないため、各個逃走を始めた。これを受けて朝鮮水軍は日本輸送船を個別に取り囲み、包囲砲撃により沈めた。夜に入って、朝鮮水軍は更に5隻の日本輸送船を発見し、この内の4隻を破壊した。
 
翌日8日、情報を受けて朝鮮水軍は[[赤珍浦]]にいる日本輸送船13隻に接近した。前日の玉浦での勝利と同様に、朝鮮水軍は日本輸送船11隻を破壊して、朝鮮水軍は1隻も失うことなく玉浦の戦いを終えた。
 
翌日8日、情報を受けて朝鮮水軍は[[赤珍浦]]にいる日本輸送船13隻に接近した。前日の玉浦での勝利と同様に、朝鮮水軍は日本輸送船11隻を破壊して、朝鮮水軍は1隻も失うことなく玉浦の戦いを終えた。
 
== 関連項目 ==