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== 発足後 ==
彼我の海軍力の差を知る海軍は対米戦争回避派が主流であったが、嶋田海相は「海相一人が反対して戦機を逸するのはよくない」として対米開戦派に同調する。東郷外相は対米交渉が陸軍などの非協力により頓挫する場合には辞職する方針であったが、[[ハル・ノート]]を受けて開戦派に転向し職に留まった。これにより内閣は開戦に固まった。
 
開戦後ほどなく、衆議院総選挙([[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]])を行うにあたり、東條は兼任していた内相を退き、生え抜きの内務官僚である[[湯沢三千男]]が就任した。戦局は日に日に非となるも、作戦への指導力を高めるため、[[統帥権]]干犯の疑義を越えて[[参謀本部|参謀総長]]をも兼任する。しかしさしたる実効力はなく、かえって東條批判を増すばかりであった。
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さらに戦時体制強化のため、[[大東亜省]]・[[軍需省]]をはじめとする省庁再編、人材登用、中央集権化を行った。東條自ら軍需大臣を兼任した結果、商工大臣だった[[岸信介]]は国務大臣兼務のまま軍需次官に異例の「格下げ」となった。一時は陸軍省・海軍省を解体し、「国防省」に再編する構想まであった。その中で、大東亜省設置に反対して[[東郷茂徳]]外相が辞任。さらに[[東京都制]]と[[市町村長]]の官選導入を柱とした[[市制]]・[[町村制]]改正に関わる[[帝国議会]]の審議過程で、[[翼賛政治会]]の反感を買った湯沢三千男内務大臣が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は日本軍の戦局悪化とともに弱体化していった。
 
一方で元首相などの[[重臣会議|重臣たち]]と、[[高松宮宣仁親王]]海軍大佐らを中心とした皇族グループ(重臣の近衛は皇族ではないが[[摂家]]の筆頭であり[[公爵]]で、立場的に皇族に準じる)による[[倒閣]]工作が水面下で進行していく。対抗して東條は、重臣の閣僚起用で乗り切りを図ったが、る。しかし[[マリアナ沖海戦]]とそれに伴う[[サイパンの戦い|サイパン陥落]]によりアメリカによる本土爆撃が容易になったことから、岸国務相が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、ならば辞職せよという東條の要求を岸が拒んだため閣内不一致となり、サイパン陥落の責任を取る形で[[1944年]](昭和19年)[[7月18日]]に総辞職した。
 
[[総力戦]]遂行のために、[[1942年]](昭和17年)に一般国民動員と国家補償を規程した法律「戦時災害保護法」が制定され、法第23条で、住宅・家財の給与金、法第24条で療養、障害、打切(切断)、遺族葬祭の給与金が規程された。([[1946年]](昭和21年)9月[[GHQ]]により廃止された。)<ref>[[http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0817.html 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]]</ref>