「栃赤城雅男」の版間の差分

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[[1979年]]11月場所では、[[輪島大士|輪島]]・[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得するなど、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>。
 
一時は[[関脇]]に定着し、[[増位山太志郎|増位山]]・[[蔵間竜也|蔵間]]・[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]・[[琴風豪規|琴風]]・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に[[大関]]候補として期待された時期もあったが、粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いや暴飲暴食、喫煙の習慣(後述)など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野の心象を悪くしていた。
 
[[1982年]]以降は、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、[[1985年]]7月場所では幕下にまで陥落。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。