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===== 1987年:世界トップへブレークスルー =====
 
1987年は世界トップへ突破口が開かれた年であり、同時にナブラチロワと二人で世界トーナメントの優勝を争っていた年である。シュテフィは75試合出場したった2試合しか落とさず、11トーナメントで優勝し、さらに初めてのグランドスラムタイトルを獲得して世界ランク1位についた。シュテフィのフォアハンドはさらに強靭となり、ラリーで優位に立った。このころ報道陣はシュテフィの強さを「フォアハンド嬢("Fraulein Forehand")」、または「無慈悲な伯爵婦人("Countess Merciless")」と表現したほどだった。年頭から7トーナメントに勝ち、連続45試合勝利は女子としては最長記録であり、好調なスタートを切った。
 
シュテフィのフォアハンドはさらに強靭となり、ラリーで優位に立った。このころ報道陣はシュテフィの強さを「フォアハンド嬢("Fraulein Forehand")」、または「無慈悲な伯爵婦人("Countess Merciless")」と表現したほどだった。年頭から7トーナメントに勝ち、連続45試合勝利は女子としては最長記録であり、好調なスタートを切った。
 マイアミ・マスターズでは準決勝でナブラチロワ、決勝でエバートを下し優勝したが、そのトーナメント全6回の試合で落としたゲームはたったの20だった。そして、その後の全仏の準決勝でサバティーニをフルセットで倒したあと、決勝で世界ランク1位のナブラチロワに6–4, 4–6, 8–6 で競い勝ち、念願のグランドスラム大会初優勝を遂げた。
しかしながら、全英では決勝でナブラチロワに7–5, 6–3敗退する。これはこの年初めての負けだった。その後3週間後のフェデレーションカップ(バンクーバー/カナダ)の決勝ではエバートを6–2, 6–1でたやすく破ったが、全米の決勝では再びナブラチロワに6-7, 1-6で屈した。その年の8月16日に世界ランキング1位となり、[[1991年]]3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている。