「深沢七郎」の版間の差分

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[[1960年]]末に『[[中央公論]]』に発表した『風流夢譚』では、皇室を侮辱していると受け取れるような内容を描いたため、翌年、中央公論社社長宅が[[右翼]]に襲撃される[[嶋中事件]](風流夢譚事件)が起こった。そのため筆を折って3年間各地を放浪した。放浪中も『放浪の手記』などを執筆している。
 
[[1965年]]、[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[菖蒲町]](現[[久喜市]])に落ち着き、上大崎の[[見沼代用水]]近くに2人の若者<ref>このうちの一人が、ゲージツ家の[[篠原勝之]]</ref>を連れて「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。
 
[[1968年]][[10月31日]]、[[心筋症]]による重度の[[心臓発作]]に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。