「銀座アスター食品」の版間の差分

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== 概要 ==
[[ハワイ州|ハワイ]]~[[サンフランシスコ]]間[[航路]]の[[東洋汽船]]の貨物船の事務長を務めたこともある、創業者の[[矢谷彦七]](1888-1967)が下船後、牛乳配達業を経て[[1918年]]([[大正]]7年)に[[築地]]で[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]からの[[バター]]の輸入事業を始める。[[帝国ホテル]]などにも納入され、流通量の日本国内シェア6割を占めるまでに成長するが、矢谷はバター事業を譲渡し、バター輸入事業で得た資金を元手に、当時アメリカで流行っていた[[チャプスイ]]レストランと呼ばれる中華料理店を見本に、[[1926年]](昭和元年)に[[銀座]]で「アメリカン・チャプスイ・ハウス・レストラン」と冠した中華料理店「アスター」を開く<ref name=repo1> [http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/annual_report_05/report_05_011.pdf 日系チャプスイレストランにおけるフォーチュンクッキーの受容 ] 中町泰子、神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター年報非文字資料研究 (5), 173-186, 2009-03</ref>。1階はアメリカ風の内装で、2階には宴会場を設け、コックには中国人、接客係に少女を配し<ref name="repo1"/>、フォークとナイフで食べる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]風中華料理の店と言う一風変わったスタイルが受け繁盛する。その後、[[中国人]]のアドバイスを受け本格的中華料理店を目指すことになる。
 
[[第二次世界大戦|戦時中]]に一旦被災するが、戦後[[1946年]](昭和21年)の再建時に一時[[喫茶店]]経営を行い、1948年(昭和23年)に中華料理店が復活、その後は[[百貨店|デパート]]の食品売り場で[[餃子]]や[[焼売|シュウマイ]]など販売するようになり、再び活気を取り戻すと共に、銀座アスター食品株式会社に改称する。[[1950年代]]は[[崎陽軒]]と同じように焼売弁当が人気商品の一つであった。