「山崎正友」の版間の差分

[[1936年]]、[[岡山県]]で生まれた。[[岡山県立岡山操山高等学校]]を卒業後、[[1955年]]に[[京都大学]][[法学部]]に入学。入学後[[腎臓病]]を患い入退院を繰り返した<ref>「反逆の裏にある顔」(北林芳典著)から。</ref>。病気を機に大学在学中に創価学会に入会。創価学会では、創価学会学生部出身初の弁護士として多大な期待を寄せられ、創価学会の法務に関わる。
 
[[1970年代]]に起きた日蓮正宗との「[[昭和52年路線]]問題」においては積極的に関わりを持ち、弁護士として日蓮正宗と創価学会の調整役を務めた。弁護士としての業務から逸脱した[[日本共産党]]の[[宮本顕治宅盗聴事件]]や、創価学会と対立する敵対団体の瓦解工作などを計画・主導<ref>当時、山崎の配下であった北林芳典が著作「邪智顛倒―ペテン師にして恐喝犯山崎正友の正体」(はまの出版、[[1994年]])で、当時の山崎の行状を詳細に記録している。</ref>。また、創価学会顧問弁護士の立場から[[日蓮正宗]]と創価学会の間に起きた諸問題で調整役を買って出た。その際、役務上知り得る情報や人脈をたどり、総本山[[大石寺]]と創価学会の間に入り、離反工作と関係調整を繰り返し、「第1次宗門問題」を陰で主導した。静岡県下の土地売買によって不相応な巨額な利益を手中にし、秘密裏に営利企業を設立するなどした。このころから一弁護士には考えられない贅沢が目立つようになった。信仰に対しては、その姿勢を他者に容喙されることを拒み、創価学会員の信仰の根幹と位置づけられる[[日蓮]]の遺文(御書全集)よりも週刊誌の記述を重視し、「どう、俺ってすごいでしょ?」というのが口癖であった<ref>実弟・山崎浩三の手記(「[[創価新報]]」1997年7月)から。</ref>。
 
後に、山崎が経営する会社「シーホース」が45億円の負債を抱え経営危機に陥った際、弁護士としての立場を最大限に利用し、創価学会を恐喝する。[[1977年]]から、創価学会の内情がマスコミに頻繁に報じられるようになり、[[1979年]]には『[[週刊文春]]』が[[池田大作]]会長の辞任をスクープした。これらは山崎と[[原島嵩]]の[[内部告発]]を情報源にしていた。山崎自身が実行犯の1人として関与した宮本顕治宅盗聴事件の暴露を材料にし、告訴取り下げの交渉を創価学会と重ねるが決裂。その意味で、創価学会員にとって山崎は「獅子身中の虫」であった。<ref>〈「宗教はだれのものか」(青山樹人著、[[鳳書院]]刊)などによる〉</ref>他方、経営危機にある自らの会社を救うために数々の手形の[[取り込み詐欺]]を行った<ref>当時、山崎の配下であった塚本貴胤がその詳細を著している。</ref>。
[[岡留安則]]によると、山崎と原島は[[自由民主党_(日本)|自民党]]に情報を提供し[[1980年]][[11月7日]]、池田名誉会長の[[証人喚問]]を要求する、54万人(のち134万人に増加)の[[請願]]を自民党に提出した。しかし自民党は動かず、山崎らの自民側窓口となった[[三塚博]]は「国会で公明党の協力は欠かすことはできない。今請願問題を持ち出すことは得策ではないと考えているのだろう」との談話を発表した。岡留は、自民党が山崎らから得た情報を創価学会・公明党との裏取引に使ったのではないかと推測、翌[[1981年]]、公明党が[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]や[[自衛隊]]容認を発表したのはそのためと岡留は推定している<ref>岡留安則 『武器としてのスキャンダル』 ちくま文庫版pp.83-93</ref>。
 
[[1981年]]、山崎は宗門との問題をねたに創価学会をゆすりから3億円を要求要求が通ると、さらに5億円を要求した。しかし、この行為によって[[恐喝|恐喝罪]]で逮捕された<ref>逮捕の直前にも「警視庁捜査四課は、調べが荒いからねえ。トンボやチョウチョと違うから、そうかんたんにつかまってたまるか」と述べていた(「[[週刊文春]]」[[1981年]][[1月29日]]号)</ref>。裁判では、山崎の主張は50数箇所にわたり虚偽であると裁判官から指摘を受けている<ref>「[[判例時報]]」1160号、東京地方裁判所昭和56年(刑わ)第288号</ref>。[[1991年]]、[[懲役]]3年の実刑[[判決]]を受け[[栃木県]]の[[黒羽刑務所]]に[[収監]]された。これを受け、日本[[弁護士会]]は山崎の弁護士資格を剥奪した。他方山崎はこの判決は創価学会の内部告発を封じるための[[冤罪]]であると主張し、[[再審|再審請求]]の意思を関係者に表明していたが、言動のみで実行はしなかった。[[1994年]]に[[服役]]を終えて仮出所。
 
=== 正信会入会そして脱会 ===
創価学会から除名された後([[1980年]]前後)、[[正信会]]に入会。『週刊文春』『諸君!』などで「二つの疑惑=日達上人の遷化と阿部日顕の相伝」、「〝御相伝〟そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった」の文を掲載し、日達より日顕への相承(法主の役職の譲渡)はなかったと主張した<ref>『週刊文春』[[1980年]][[11月20日]]号など</ref>。当時は徹底して反日顕の立場をとり、日顕を非難していた。阿部[[日顕]]管長に対して「管長(宗門内の行政の最高役職、法主が兼任する)の座に自らついてからの宗門行政が、まことに信仰心のうすい、功利主義の権化の如き姿である」等と激しく攻撃した<ref>「[[週刊文春]]」[[1981年]][[2月12日]]号。他にも「[[日顕]]の私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない」「日顕みずからが、若い頃より知らぬ人のない遊蕩児であった」等と記している。</ref>。しかしながら後に[[正信会]]を裏切り手のひらを返たように日顕と盟友となり、反創価学会活動の先鋒となる。創価学会除名以前から[[正信会]]僧侶の浜中和道と一体になり創価学会への糾弾を強めていた。ところがその後浜中の夫人との不倫が発覚し浜中とは犬猿の仲に。浜中は山崎の行状などを記録し非難する著作を残している。山崎正友の葬儀で喪主を務めた山崎夫人は、浜中和道の元夫人である。
 
山崎は[[正信会]]の会員でありながら[[正信会]]の最大の敵である[[日顕]]に再接近を試みた。しかし、逆に大石寺において[[日顕]]より「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」「こちらからいいと言うまで、本山(大石寺を意味する)に来ることはまかりならぬ」と怒鳴られ、再接近は一度は失敗した。[[日顕]]のこの態度に対し山崎は「あの野郎が猊下(法主に対する敬称)なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」と述べた<ref>浜中和道『回想録』</ref>。{{要出典範囲|この時期さまざまな宗教を渡り歩いている。|date=2012年5月}}
 
その後、[[日顕]]に再接近するチャンスが訪れ、正信会を[[1995年]]に脱会した。それまで[[正信会]]立場で攻撃していた[[日顕]]管長の側の機関紙「慧妙」<ref>現在は株式会社</ref>に突然、登場し「私が御相承を拝信するに至るまで」と題する手記を寄稿した。そこでは「最近になって、私は、日顕上人猊下が“御相承”について示された御指南を、活字で拝読させていただく機会を得た。微妙深遠な問題であり、また、私共凡下が窺い知るべくもない事柄も多々あるために、難解で婉曲な御表現の部分もあったが、くりかえし読ませていただくうちに、御相承の伝えられる形についての私の疑念は氷解していった」等と、手のひらを返すように以前とは全く逆の見解を書いている<ref>「慧妙」[[1995年]][[2月16日]]付</ref>。
 
[[1993年]][[12月9日]]、山崎は自民党民主政治研究会の勉強会に出席し、[[1968年]]に創価学会が起こしたと彼が主張する選挙違反事件[[新宿替え玉事件]]に言及し創価学会が13票と公表した替え玉投票の投票数を創価学会の虚偽、偽証とし実際に替え玉投票が行われたのは新宿区だけで5000票強、全体ではおよそ2万票、自分が指揮を執ったと語った山崎が主張するこの事件の司直による事実確認は行われていない。
 
その後は創価学会の批判記事の執筆活動を行い、[[週刊新潮]]などの週刊誌上で発表した。しかしながら、[[21世紀]]に入ってからは活動は先細りとなっていた。
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