「松代大本営跡」の版間の差分

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m (茂菅村は明治22年には長野町→長野市に編入しているため一部訂正)
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、[[皆神山]]の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の[[宮内庁]])として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。
 
関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。[[上高井郡]]須坂町([[須坂市]])鎌田山には送信施設、[[埴科郡]][[清野村 (長野県)|清野村]](現在の長野市)妻女山に受信施設、長野市[[茂菅]]の善光寺温泉および[[善光寺白馬電鉄|善白鉄道]]トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市[[大豆島#松岡|松岡]]にあった[[長野飛行場]]が陸軍により拡張工事が行われている。
 
== 松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策 ==
昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]([[今上天皇]])、[[常陸宮正仁親王|義宮]](常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったといわれる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者([[小倉庫次]][[侍従]]、[[加藤進 (会計検査院長)|加藤進]]総務局長)が訪れ、[[内大臣]]の[[木戸幸一]]の日記([[木戸日記]])の1945年[[7月31日]]付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。
 
松代大本営建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および[[朝鮮半島]]から動員された朝鮮人[[労務者]]が中心となった。工事は[[西松建設|西松組]]や[[鹿島建設|鹿島組]]が請け負った。[[満州国]]からの第4639部隊や、[[賢所]]工事には[[鉄道省]][[静岡隧道学校]]の若者も当たり、付近の住民は[[国民勤労報国協力令|勤労奉仕隊]]として[[ズリ]]などの運搬に、また当時の屋代中学、松代商業の生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに[[学徒動員]]され、[[国民学校]]初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った<ref name=naniga13 />。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。
 
当時飯場で賄いをしていた人からの証言では地下壕掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕外での資材運搬で働く朝鮮人労働者には白米3合が配給、他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られるという破格の待遇<ref name=naniga20>大本営犠牲者追悼碑を守る会記者会見 ”松代大本営の朝鮮人労働者への食料配布は1日7合と判明”.</ref>であった。
 
== 慰安所 ==
壕周辺に慰安所は3所あり4~54〜5人の朝鮮人の[[慰安婦]]がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。ただし、トラックで来た兵隊や支那服のようなものを着た女性が町の方から大勢来たのを覗きに行って怒られた子供の逸話もある<ref name=naniga74 />。
 
そのうちの一つは本六工社の女工のための娯楽室だったものが、1938年倒産後物置になり、1944年9月からは労務者宿舎建設工事の合宿所となっていた。その後、周辺婦女子とのトラブル防止目的の慰安所として貸し出されたもので、11月に朝鮮人一家5名と日本語の通じない接客婦3名(朝鮮の高官が朝鮮人労務者のために本国から連れてきたとされる)、雑役1名が岩手県[[釜石市]]より移住し慰安所、博打場として営業を開始した<ref name=naniga74 />。売春行為が行われていたかははっきりしない。終戦後9月、一家と使用者は帰国し、その後の建物には先の朝鮮人一家の弟夫婦が半年ほど住み着き、博打場のように使われた。弟夫婦立ち退き後、建物は医院として貸し出され、閉院後は1991年に解体されるまで再び倉庫となっていた。
 
== 跡地利用 ==
[[1946年]](昭和21年)、[[埴科郡]]仏教会が旧[[大蔵省]]より舞鶴山のIV号舎(仮御座所)を払い下げを受け、児童養護施設恵愛学園とする。
 
[[1947年]](昭和22年)、この松代大本営を[[戦災孤児]]のための施設に転用しようという動きがあったが実現しなかった。
[[1947年]](昭和22年)、舞鶴山のコンクリート庁舎に中央気象台([[気象庁]])の松代分室([[地震観測所]])が設けられ、舞鶴山地下壕には、各種地震計が設置された。現在では日本最大規模の[[気象庁精密地震観測室|精密地震観測室]]となっている。
 
[[1967年]](昭和42年)、[[松代群発地震]]発生で舞鶴山のコンクリート庁舎III号舎(宮内省庁舎)に気象庁の[[松代地震センター]]が設置される。
 
[[1990年]](平成2年)、長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開される。なお象山地下壕1番壕には[[信州大学]]の[[宇宙線]]観測施設が設けられている。
:放置されていた壕のひとつである象山地下壕は、地元の私立篠ノ井旭高校(現[[長野俊英高等学校|長野俊英高校]])の教師土屋光男の指導を受けた沖縄戦研究班(現、[[郷土研究班]])の高校生が市によびかけ、1990年から長野市観光課が一部公開を始めた。
 
* 舞鶴山地下壕およびコンクリート庁舎
:舞鶴山地下壕には地震計が設置されており、基本的に見学は出来できないが、コンクリート庁舎内(地下宮殿の手前まで)が一部公開されている。I号舎(天皇御座所)の和室は外から見学できる。
 
== 大本営跡・地下壕内の様子(ギャラリー) ==
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