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==古代の日本==
世界の最初に、[[高天原]]に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた<ref name="shinwa">[[戸部民夫]] 『日本神話』 12頁。</ref>。
*[[天之御中主神]](あめのみなかぬしのかみ)
*[[タカミムスビ|高御産巣日神]](たかみむすひのかみ)
*[[カミムスビ|神産巣日神]](かみむすひのかみ)
続いて、二柱の神が生まれた<ref name="shinwa"/>。
*[[ウマシアシカビヒコヂ|宇摩志阿斯訶備比古遅神]](うましあしかびひこぢのかみ)
*[[天之常立神]](あめのとこたちのかみ)
この五柱の神は特に性別はなく、独身のままに子どもを生まずに身を隠してしまった。それゆえに、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため'''[[別天津神]]'''(ことあまつかみ)と呼ぶ<ref>戸部民夫 『日本神話』 12-14頁。</ref>。
 
次に、また二柱の神が生まれた<ref name="shinwa2">戸部民夫 『日本神話』 14頁。</ref>。
*[[国之常立神]](くにのとこたちのかみ)
*[[トヨクモノ|豊雲野神]](とよくもののかみ)
国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく<ref name="shinwa2"/>、また、これ以降、神話には登場しない。
 
これに引き続いて五組十柱の神々が生まれた。五組の神々はそれぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている<ref>戸部民夫 『日本神話』 15頁。</ref>。
{| class="wikitable"
! 男性神 !! 女性神
|-
| [[ウヒヂニ・スヒヂニ|宇比地邇神]](うひぢにのかみ) || [[ウヒヂニ・スヒヂニ|須比智邇神]](すひぢにのかみ)
|-
| [[ツヌグイ・イクグイ|角杙神]](つのぐひのかみ) || [[ツヌグイ・イクグイ|活杙神]](いくぐひのかみ)
|-
| [[オオトノヂ・オオトノベ|意富斗能地神]](おほとのじのかみ) || [[オオトノヂ・オオトノベ|大斗乃弁神]](おほとのべのかみ)
|-
| [[オモダル・アヤカシコネ|於母陀流神]](おもだるのかみ) || [[オモダル・アヤカシコネ|阿夜訶志古泥神]](あやかしこねのかみ)
|-
| [[イザナギ|伊邪那岐神]](いざなぎのかみ) || [[イザナミ|伊邪那美神]](いざなみのかみ)
|}
以上の七組十二柱の神々を総称して'''[[神世七代]]'''(かみのよななよ)という。
 
'''伊邪那岐の子女'''
*[[アマテラス|天照大御神]]。
*{{ルビ|[[月読命]]|つくよみのみこと}}。
*[[スサノオ|須佐之男命]]。
天照大御神の子、[[天忍穂耳命]]。
{| class="wikitable"
! 男性神 !! 女性神
|-
| [[天忍穂耳命]] || [[萬幡豊秋津師比売命]]
|}
天忍穂耳命の子、'''{{ルビ|[[邇邇芸命]]|ににぎのみこと}}'''
*邇邇芸命の誕生
*{{ルビ|[[猿田毘古神]]|さるたびこのかみ}}
*[[天孫降臨]]
*[[猿田毘古神]]と{{ルビ|[[天宇受売命]]|あめのうずめのみこと}}
*{{ルビ|[[木花之佐久夜毘売]]|このはなのさくやびめ}}
邇邇芸命の子、[[火遠理命]]。
{| class="wikitable"
! 男性神 !! 女性神
|-
| [[火遠理命]] || [[豊玉毘売命]]
|-
| [[鵜草葺不合命]] || [[玉依毘売命]]
|}
[[紀元前660年]]、鵜草葺不合命の子、{{ルビ|神日本伊波礼毘古命|かんやまといわれびこのみこと}}([[神武天皇]])が初代日本天皇で即位した。
 
紀元後[[250年]]頃から[[古墳時代]]が始まった。
 
[[6世紀]]末、[[飛鳥]]に立都して[[飛鳥時代]]が始まったし、この時に[[聖徳太子]]が[[法隆寺]]を建立した。
 
[[645年]]、[[律令制]]改革の[[大化改新]]が行われた。
*'''大和改新の内容'''
#すべての土地は天皇の所有
#[[国司]]を地方に派遣
#土地の均分
#租税制度に一貫性
[[和銅]]3年([[710年]])、[[平城京]](今の[[奈良]])に遷都して[[奈良時代]]が始まった。
===平安遷都===
延暦13年([[794年]])、[[桓武天皇]]は[[平安京]](今の[[京都]])へ遷都した。以後、400年間を[[平安時代]]と言う。
 
また[[東北地方]]を開拓させるため、[[坂上田村麻呂]]を[[征夷大将軍]]とする軍を送った。
 
文化面では延暦23年([[804年]])、[[最澄]]と[[空海]]が[[遣唐使]]として[[唐]]に渡った。
 
*'''最澄''' [[延暦]]24年([[805年]])帰国。
*'''空海''' [[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])帰国。
*[[弘仁]]3年([[812年]])から二人は法会を交換して、仏経を一緒に研究したが、[[弘仁]]5年([[814年]])から最澄は比叡山派へ、空海は高野山派へ、完全分離。
*'''最澄''' [[弘仁]]13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[旧暦]])([[822年]][[6月26日]]〈[[ユリウス暦|新暦]]〉)入定。
*'''空海''' [[承和 (日本)|承和]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[旧暦]])([[835年]][[4月22日]]([[ユリウス暦|新暦]]))入定。
*'''最澄''' [[866年]]([[貞観 (日本)|貞観]]8年)、[[清和天皇]]より'''伝教大師'''(でんぎょうだいし)の[[諡|諡号]]が贈られた。
*'''空海''' [[延喜]]21年([[921年]])10月27日、[[東寺]][[長者]][[観賢]]の奏上により、[[醍醐天皇]]から「'''弘法大師'''」の[[諡号]]が贈られた。
 
===藤原攝関政治===
[[9世紀]]中半から[[藤原氏]]の外戚政治の傾向を見せる。その中でも [[藤原北家|北家]]がだんだん主導権を掌握した。
*'''[[仁明天皇]]'''
* [[女御]]([[皇太后]]):[[藤原順子]](808-871) - [[藤原冬嗣]]女
** 第一皇子:道康親王([[文徳天皇]])(827-858)
* 女御(贈皇太后):[[藤原沢子]](?-839) - [[藤原総継]]女(一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデルという)
** 第二皇子:[[宗康親王]](828-868)
** 第三皇子:時康親王([[光孝天皇]])(830-887)
** 第四皇子:[[人康親王]](831-872) - 子孫は[[源氏#仁明源氏|仁明源氏]]
** 皇女:[[新子内親王]](?-897)
*'''[[文徳天皇]]'''
* 女御(皇太后):[[藤原明子 (染殿后)|藤原明子]](828-900) - [[藤原良房]]女
** 第四皇子:惟仁親王([[清和天皇]])(850-881)
** 皇女:[[儀子内親王]](?-879) - [[斎院|賀茂斎院]]
*'''[[清和天皇]]'''
* [[女御]]([[皇太后]]):[[藤原高子]](842-910) - [[藤原長良]]女
** 貞明親王([[陽成天皇]])(868-949)
** [[貞保親王]](870-924) - 三品[[式部省|式部卿]]
** [[敦子内親王]](?-930) - [[斎院|賀茂斎院]]
*'''[[宇多天皇]]'''
* 女御(贈[[皇太后]]):[[藤原胤子]](?-896) - [[藤原高藤]]女
** 敦仁親王([[醍醐天皇]])(885-930)
** [[敦慶親王]](887-930) - 二品[[式部省|式部卿]]
** [[敦固親王]](?-926) - 二品[[兵部省|兵部卿]]
** [[柔子内親王]](892?-958) - [[斎宮]](六条斎宮)
** [[敦実親王]](893-967) - [[一品親王|一品]]式部卿
*'''[[醍醐天皇]]'''
* 中宮:[[藤原穏子]](885-954) - [[関白]][[藤原基経]]女
** 第二皇子:[[保明親王]](文献彦太子)(903-923) - 醍醐天皇[[皇太子]]
** 第十六皇女:[[康子内親王]](919-957) - 一品准三宮、右大臣[[藤原師輔]]室
** 第十四皇子:寛明親王([[朱雀天皇]])(923-952)
** 第十六皇子:成明親王([[村上天皇]])(926-967)
*'''[[村上天皇]]'''
* 中宮:[[藤原安子]](927-964) - [[右大臣]][[藤原師輔]]長女
** 皇子(946、夭逝)
** 第一皇女:[[承子内親王]](948-951)
** 第二皇子:憲平親王([[冷泉天皇]])(950-1011)
** 第四皇子:[[為平親王]](952-1010) - 一品式部卿
** 第七皇女:[[輔子内親王]](953-992) - [[斎宮|伊勢斎宮]]
** 第九皇女:[[資子内親王]](955-1015) - 一品[[准后|准三宮]]
** 第七皇子:守平親王([[円融天皇]])(959-991)
** 皇女(962、夭逝)
** 第十皇女:[[選子内親王]](大斎院)(964-1035) - [[斎院|賀茂斎院]]
*'''[[冷泉天皇]]'''
* 女御(贈皇太后):[[藤原懐子]](945-975)- 摂政[[藤原伊尹]]女
** 第一皇女:[[宗子内親王]](964-986)
** 第二皇女:[[尊子内親王]](966-985) - [[斎院|賀茂斎院]]、[[円融天皇]]女御
** 第一皇子:師貞親王([[花山天皇]])(968-1008)
* 女御(贈皇太后):[[藤原超子]](954?-982)- [[藤原兼家]]長女
** 第三皇女:光子内親王(973-975)
** 第二皇子:居貞親王([[三条天皇]])(976-1017)
** 第三皇子:[[為尊親王]](977-1002)
** 第四皇子:[[敦道親王]](981-1007)
*'''[[円融天皇]]'''
* [[女御]]:[[藤原詮子]](962-1001) - 右大臣[[藤原兼家]]次女、のち[[皇太后]]
** 第一皇子:懐仁親王([[一条天皇]])(980-1011)
この頃、[[藤原兼家]]の長子[[藤原道隆|道隆]]の中関白家と五子[[藤原道長|道長]]の御堂家の対決で絶頂に至った。
*'''[[一条天皇]]'''
* 皇后:[[藤原定子]](977-1000:号中宮、のち皇后宮) - 関白[[藤原道隆]]長女
** 第一皇女:[[脩子内親王]](996-1049) - 一品[[准后|准三宮]]
** 第一皇子:[[敦康親王]](999-1018) - 一品式部卿
** 第二皇女:[[び子内親王|媄子内親王]](1000-1008) - [[藤原詮子|東三条院]]養女
*'''女房'''
:[[清少納言]](代表作 - [[枕草子]])
* 皇后:[[藤原彰子]](988-1074:号中宮) - 左大臣[[藤原道長]]長女
** 第二皇子:敦成親王([[後一条天皇]])(1008-1036)
** 第三皇子:敦良親王([[後朱雀天皇]])(1009-1045)
*'''女房'''
#[[紫式部]](代表作 - [[源氏物語]])
#[[和泉式部]]
#[[赤染衛門]](代表作 - [[栄花物語]])
#[[伊勢大輔]]
*'''[[後一条天皇]]'''
* 中宮:[[藤原威子]](1000-1036) - 摂政[[藤原道長]]女
** 第一皇女:[[章子内親王]](二条院)(1027-1105) - [[後冷泉天皇]]中宮
** 第二皇女:[[馨子内親王]](西院皇后)(1029-1093) - [[斎院|賀茂斎院]]、[[後三条天皇]]中宮
*'''[[後朱雀天皇]]'''
* 皇后:[[禎子内親王]](1013-1094) - [[三条天皇]]第三皇女
** 第一皇女:[[良子内親王]](1030-1077) - [[斎宮|伊勢斎宮]]、一品[[准后|准三宮]]
** 第二皇女:[[娟子内親王]](1032-1103) - [[斎院|賀茂斎院]]、[[源俊房]]室
** 第二皇子:尊仁親王([[後三条天皇]])(1034-1073)
* 尚侍(贈皇太后):[[藤原嬉子]](1007-1025) - 摂政[[藤原道長]]六女
** 第一皇子:親仁親王([[後冷泉天皇]])(1025-1068)
10世紀中葉からは日本の文字「がな」がだんだん輪郭が形成される。定型詩[[和歌]]もこの時期に隆盛、[[紀貫之]]は幾多の和歌を編んだ文集たちを編纂した。[[陰陽師]][[安倍晴明]]もこの時に活躍した。
 
===院政===
[[治暦]]4年([[1068年]])、藤原氏と血続き的に無関係な[[後三条天皇]]が即位して親政を開始して、[[寛治]]元年([[1087年]])、[[白河天皇]]は皇位を[[堀河天皇]]に譲位して[[上皇]]になって[[院政]]を始める。
* [[白河天皇|白河上皇]] - [[堀河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[崇徳天皇]]
* [[鳥羽天皇|鳥羽上皇]] - [[近衛天皇]]、[[後白河天皇]]
天皇派と上皇派の複雑な関数関係の問題は[[保元の乱]]([[1156年]])、[[平治の乱]]([[1159年]])で現われて、その結果、勢力を育てて来た武士が政界に登場する。
 
===保元の乱===
====天皇方====
'''貴族'''
* [[藤原忠通]]…関白
* [[信西]]
* [[徳大寺実能]]…[[内大臣]]。頼長の室・[[藤原幸子|幸子]]の父。[[守仁親王]]の[[東宮傅]]
 
'''武士(北面・検非違使・京武者)'''
* [[平清盛]]…安芸守。[[伊勢平氏]][[平正衡|正衡]]流
* [[源義朝]]…下野守。[[河内源氏]]
* [[源義康]]…右衛門尉。[[足利氏]]の祖
* [[源頼政]]…兵庫頭。[[摂津源氏]]
* [[平盛兼]]…和泉守。伊勢平氏[[平貞季|貞季]]流
** [[平信兼]]…盛兼の子
* [[源光保]]…出雲守。[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の寵妃・[[土佐局]]の父。[[美濃源氏]]
* [[源重成]]…式部大夫。[[清和源氏]][[源満政|満政流]]
** [[源重貞]]…重成の弟
* [[源季実]]…[[左衛門尉]]。[[文徳源氏]](坂戸源氏)
* [[平維繁]]…右衛門尉。[[越後平氏]]。隠岐守・[[平繁賢]]の子
* [[平実俊]]…左衛門尉。[[下毛野氏]]の出身。白河院北面・平宗実の養子<ref>京都大学図書館所蔵『下毛野氏系図』に実俊の名があり、その傍注に駿河守・平宗実の養子となり姓名を改めたと記されている(齋藤拓海「院政期の近衛官人と武士の関係--平実俊を通して」『日本歴史』746、2010年)。</ref>
* [[多田頼盛|源頼盛]]…前[[蔵人]]。[[多田源氏]]
 
'''清盛軍の武士'''
* [[平重盛]]…[[中務省|中務少輔]]。清盛の[[長男]]
* [[平基盛]]…左衛門尉。清盛の次男
* [[平頼盛]]…常陸介。清盛の弟
* [[平教盛]]…淡路守。清盛の弟
* [[平経盛]]…清盛の弟
* [[平家貞]]…清盛の郎党
* [[平貞能]]…家貞の子
* [[平盛国]]…清盛の郎党
* [[平盛俊]]…盛国の子
* [[藤原景綱]]…清盛の郎党
* [[藤原忠清]]…景綱の子。伊藤五
* [[藤原忠直]]…景綱の子。伊藤六
* [[山田是行]]…清盛の郎党
* [[難波経房]]…清盛の郎党。備前の武士
* [[妹尾兼康]]…清盛の郎党。備中の武士
 
'''義朝軍の武士'''<ref>東国の武士は朝廷が国衙を通して動員しており、義朝と主従関係にない武士も多く含まれていたという指摘がある([[野口実]]『源氏と坂東武士』吉川弘文館、[[2007年]]([[平成]]19年))。</ref>
* [[鎌田政清]]…義朝の乳兄弟。第一の郎党
* [[河内経国]]…義朝の叔父。後見人
* [[佐々木秀義]]…義朝の郎党。[[近江源氏]][[佐々木氏]]
* [[山内首藤俊通]]…義朝の郎党。[[相模国|相模]]の武士
* [[山内首藤俊綱]]…俊通の子
* [[波多野義通]]…義朝の妻([[源朝長|朝長]]の母)の兄。相模の武士。[[横山党]]
* [[海老名季貞]]…相模の武士。横山党
* [[大庭景義]]…相模の武士。[[鎌倉氏|鎌倉党]]
* [[大庭景親]]…景義の弟
* [[斎藤実盛]]…[[武蔵国|武蔵]]の武士
* [[平山季重]]…武蔵の武士。[[西党]]
* [[熊谷直実]]…武蔵の武士
* [[猪俣範綱]]…武蔵の武士。[[猪俣党]]
* [[岡部忠澄]]…武蔵の武士。猪俣党
* [[金子家忠]]…武蔵の武士。[[村山党]]
* [[河越重頼]]…武蔵の武士。[[秩父氏|秩父党]]
* [[師岡重経]]…重頼の弟
* [[上総広常]]…[[上総国|上総]]の武士。父の[[上総常澄|常澄]]は、義朝を養君として擁立
* [[千葉常胤]]…[[下総国|下総]]の武士
* [[八田知家]]…[[下野国|下野]]の武士。姉の[[寒河尼]]は[[源頼朝|頼朝]]の乳母
* [[足利俊綱]]…下野の武士。[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]
* [[片切景重]]…義朝の郎党。[[信濃国|信濃]]の武士
* [[海野幸親]]…信濃の武士
* [[根井行親]]…信濃の武士
* [[工藤茂光]]…[[伊豆国|伊豆]]の武士
 
====上皇方====
'''貴族等'''
* [[藤原頼長]]…[[左大臣]]。氏長者
* [[藤原教長]]…[[京職|左京大夫]]。[[崇徳天皇|崇徳]]の側近
* [[藤原実清]]…[[馬寮|右馬権頭]]。崇徳の側近。[[閑院流]]
* [[源成雅]]…[[近衛府|左近衛権中将]]。頼長の室([[藤原師長|師長]]の母)の兄弟
* [[藤原成隆]]…[[皇后宮職|皇后宮権亮]]。[[摂家|摂関家]]の[[家司]]。頼長の父方・母方を通じての従兄弟
* [[源俊通]]…備前権守。[[摂家|摂関家]]の家司
* [[藤原盛憲]]…[[式部省|式部大輔]]。頼長の母方の従兄弟。[[勧修寺流]]。[[上杉氏]]の祖
* [[藤原憲親]]…[[皇后宮職|皇后宮権大進]]。盛憲の弟
* [[藤原経憲]]…[[蔵人]]大夫。盛憲の弟
* [[藤原家長]]…[[能登国|能登守]]。[[藤原顕季|善勝寺流]]
* [[藤原保成]]…[[善勝寺流]]。崇徳の側近
* [[難波頼輔]]…山城守。教長の弟
* [[藤原資憲]]…皇后宮大進
* [[源師光]]…皇后宮権大夫。頼長の養子
* [[菅原登宣]]…給料文章生
* [[藤原重綱]]…前山城守
* [[図書允俊成]]…図書允。頼長の側近
 
'''武士'''
* [[源為義]]…前大夫尉。義朝の父
** [[源頼賢]]…前左衛門尉。為義の四男
** [[源頼仲]]…為義の五男
** [[源為宗]]…為義の六男
** [[源為成]]…為義の七男
** [[源為朝]]…鎮西八郎。為義の八男
** [[源為仲]]…為義の九男
* [[平忠正]]…前右馬助。清盛の叔父
** [[平長盛]]…崇徳院蔵人。忠正の長男
** [[平忠綱]]…左大臣家匂当。忠正の次男
** [[平正綱]]…左大臣家匂当。忠正の三男
** [[平通正]]…忠正の四男
* [[平家弘]]…右衛門大夫。崇徳の従者。伊勢平氏[[平正済|正済]]流
** [[平正弘]]…下野判官。家弘の父
** [[平康弘]]…[[大炊寮|大炊助]]。家弘の弟
** [[平盛弘]]…右衛門尉。家弘の弟
** [[平時弘]]…[[兵衛府|兵衛尉]]。家弘の弟
** [[平光弘]]…家弘の子
** [[平頼弘]]…家弘の子
** [[平安弘]]…家弘の子
* [[多田頼憲|源頼憲]]…多田荘の荘官。多田源氏
** [[多田盛綱|源盛綱]]…頼憲の子
* [[源為国]]…崇徳院判官代。河内源氏[[源頼清|頼清流]]。信西の女婿。[[信州村上氏]]の祖
** [[村上信国|源信国]]…為国の子
** [[源基国]]…為国の子
* [[片切為重]]…[[信濃源氏]][[片桐氏]]
* [[源親治]]…頼長の家人。[[大和源氏]]
* [[多近久]]…崇徳院の武者所
* [[秦助安]]…前滝口武者。頼長の家人
* [[須藤家季]]…為朝配下。九郎
 
'''僧侶'''
* [[信実]]…[[興福寺]]上座
* [[尋範]]…法印。権大僧都。頼長の大叔父
* [[千覚]]…権律師。頼長の母方の叔父
 
==中世の日本==
そして、[[源氏|源]][[平氏|平]]両家の命運をかけた一進一退の内戦あげく、結局、[[元暦]]2年([[1185年]])、[[壇ノ浦の戦い]]で[[源氏]]の勝利で終わって、[[建久]]3年([[1192年]])、[[源頼朝]]が[[征夷大将軍]]宣下、略称[[将軍宣下]]、[[鎌倉幕府]]を開く。[[13世紀]]初から幕府の外戚の[[北条氏]]の[[執権|執権政治]]の傾向を見せる。
 
[[13世紀]]末の二度の[[元寇]]を経験したし、[[14世紀]]に入って地方の武士が勢力を育て、遂に、これを代表する[[足利尊氏]]が[[後醍醐天皇]]と協力して、[[元弘]]3年([[1333年]])、[[鎌倉幕府]]を滅ぼす。
 
しかし、[[建武新政]]の方向をおいて見解の違いがまた大きくなって、[[後醍醐天皇]]が[[吉野]]に別に樹立した[[南朝]]と尊氏が[[京都]]に別途の[[光明天皇|天皇]]を擁立した[[北朝]]が分離して、以後60年間を[[南北朝時代]]で言う。南北朝の和合は[[明徳]]3年([[1392年]])に成り立った。
 
その結果、[[北朝]]の[[天皇]]が皇位を引き継いだが、初めに尊氏は[[北朝]]を立てる時、[[室町幕府]]も一緒に立てたから、室町幕府の位相の強化の意味もなった。
 
==応仁の乱==
南北朝を和合させた[[足利義満]]は京都に[[金閣寺]]を立て、外では[[明]]と貿易をすることで、室町幕府はしばらく、平和を維持したが、[[1460年代]]中半には将軍[[足利義政]]の後継者問題が主な問題に浮び上がる。この時、大名の中で[[細川勝元]]は義政の弟[[足利義視|義視]]を支持、[[山名宗全]]は義政の息子[[足利義尚|義尚]]を支持してライバル関係になる。地方の大名らもずっとどの一方に加わって、[[応仁]]元年([[1467年]])、[[京都]]で対決する。[[応仁の乱]]。
===東軍===
*'''守護大名'''
* [[細川勝元]]:[[摂津国|摂津]]・[[丹波国|丹波]]・[[讃岐国|讃岐]]・[[土佐国|土佐]]
* [[細川成之]]:[[阿波国|阿波]]
* [[細川常有]]:[[和泉国|和泉]]半国
* [[細川政久]]:[[和泉国|和泉]]半国
* [[細川勝久]]:[[備中国|備中]]
* [[畠山政長]]:[[越中国|越中]]・([[河内国|河内]])
* [[斯波義敏]]・[[斯波義寛]]:([[尾張国|尾張]]・[[越前国|越前]]・[[遠江国|遠江]])
* [[京極持清]]:[[飛騨国|飛騨]]・[[近江国|近江]]半国・[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]
* [[六角政堯]]:[[近江国|近江]]半国
* [[赤松政則]]:[[播磨国|播磨]]・[[加賀国|加賀]]半国([[備前国|備前]]・[[美作国|美作]])
* [[山名是豊]]:[[山城国|山城]]・[[備後国|備後]]
* [[武田信賢]]・[[武田国信]]:[[若狭国|若狭]]・[[安芸国|安芸]]半国
* [[今川義忠]]:[[駿河国|駿河]]
* [[富樫政親]]:加賀半国(開戦後間もなく西軍から寝返り)
* [[北畠教具]]:[[伊勢国|伊勢]]半国
* [[大友親繁]]:[[豊後国|豊後]]・[[筑後国|筑後]]
* [[少弐政資|少弐頼忠]]:([[肥前国|肥前]])・[[対馬国|対馬]]・(筑前)
* [[菊池重朝]]:[[肥後国|肥後]]
* [[島津立久]]:[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]](但し、実戦には参加していない)
*'''その他'''
* [[斯波持種]]、[[小笠原家長]]、[[木曽家豊]]、[[松平信光]]、[[吉良義真]]、[[成身院光宣]]、[[筒井順永]]、[[十市遠清]]、[[吉川経基]]、[[吉見信頼]]、[[益田兼堯]]、[[大内教幸]]、[[小早川煕平]]、[[河野教通]]、[[相良長続]]など
===西軍===
*'''守護大名'''
* [[山名宗全]]:[[但馬国|但馬]]・(播磨)
* [[山名豊氏]]?:[[因幡国|因幡]]
* [[山名教之]]:[[伯耆国|伯耆]]・(備前)
* [[山名政清]]:(美作)・[[石見国|石見]]
* [[畠山義就]]:河内([[紀伊国|紀伊]]・[[大和国|大和]])
* [[畠山義統]]:[[能登国|能登]]
* [[斯波義廉]]:越前・尾張・遠江
* [[一色義直]]:[[丹後国|丹後]]・伊勢半国
* [[小笠原清宗]]:[[信濃国|信濃]]
* [[土岐成頼]]:[[美濃国|美濃]]
* [[六角高頼]]:近江半国
* [[河野通春]]:[[伊予国|伊予]]
* [[大内政弘]]:[[長門国|長門]]・[[周防国|周防]]・[[豊前国|豊前]]・[[筑前国|筑前]]
* [[渋川教直]]:肥前
*'''その他'''
* [[吉良義藤]]、[[飛騨国|飛騨]][[姉小路家]]、[[富樫幸千代]]、[[毛利豊元]]、[[武田元綱]]、[[竹原]][[小早川氏]]、[[島津季久]]、[[一色時家]]、[[戸田宗光]]、[[越智家栄]]など
===東西に分裂した家===
{| class="wikitable"
|+
! 氏族 !! 東軍 !! 西軍 !! 備考
|-
![[斯波氏]]
| [[斯波義敏]]<br/>[[斯波義寛]]<br/>[[斯波持種]]|| [[斯波義廉]]<br/>[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]★|| 越前・尾張・遠江守護、三管領家
|-
! [[畠山氏]]
| [[畠山政長]] ||[[畠山義就]]<br/>[[畠山義統]]||越中・河内・能登守護、三管領家
|-
! [[山名氏]]
| [[山名是豊]]||[[山名宗全]]<br/>[[山名豊氏]]<br/>[[山名教之]]<br/>[[山名政清]]||伯耆・因幡・但馬・石見・山城・備後守護、[[四職]]
|-
! [[京極氏]]
| [[京極孫童子丸]]<br/>[[京極政経]]<br/>[[多賀高忠]]||[[京極高清]]<br/>[[京極政光]]<br/>[[多賀清直]]||近江半国・出雲守護、四職。[[京極騒乱]]を参照
|-
! [[六角氏]]
| [[六角政堯]]||[[六角高頼]]||近江半国守護
|-
! [[土岐氏]]
| [[土岐政康|世保政康]]☆||[[土岐成頼]]||美濃守護
|-
! [[大内氏]]
| [[大内教幸]]||[[大内政弘]]||長門・周防・豊前・筑前守護
|-
! [[小笠原氏]]
| [[小笠原家長]] ||[[小笠原清宗]]||信濃守護
|-
! [[富樫氏]]
| [[富樫政親]] ||[[富樫幸千代]]||加賀守護
|-
! [[武田氏]]
| [[武田信賢]]<br/>[[武田国信]]||[[武田元綱]]||若狭・安芸半国守護
|-
! [[河野氏]]
| [[河野教通]]||[[河野通春]]||伊予守護
|-
! [[吉良氏]]
| [[吉良義真]]||[[吉良義藤]]||西条家・東条家
|-
! [[小早川氏]]
| [[小早川煕平]]<br/>[[小早川敬平]]||[[小早川盛景]]<br/>[[小早川弘景 (二代)|小早川弘景]]<br/>[[小早川弘平]]||沼田家・竹原家
|}
※☆は西軍、★は東軍に寝返り
 
==戦国時代==
この乱は、10年間続いたあげく文明9年([[1477年]])、東西両軍の和議で一切りつく。以後、全国各地で大名らがもたげて[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]が始まる。
===東北===
東北地方の戦国大名は[[鎌倉時代]]から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る(実際は商人出身か?)[[蠣崎氏]]で、[[津軽海峡]]沿いの中小豪族を統一した。
 
東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、[[伊達氏]]の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。[[篠川公方]]や[[斯波氏#陸奥守家|雫石御所]]も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年[[伊達稙宗]]が[[奥州探題]]・[[大崎氏]]らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。
 
1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こし、血縁関係にある[[奥羽]]諸大名を巻き込んだ大乱([[天文の乱]])へ発展した。この乱の過程で、[[伊達晴宗]]は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて[[戦国大名]]としての体制を確立することに成功した。
===関東===
関東では京都で応仁の乱が起きる以前より、[[享徳の乱]]・[[長享の乱]]・[[永正の乱]]の3つの大乱が立て続けに起こっており、[[古河公方]]と[[関東管領]][[山内上杉家]]・その庶流の[[扇谷上杉家]]が3つ巴になって覇権を争った。
 
その間隙を縫って伊勢盛時([[北条早雲]])が伊豆の[[堀越公方]]を滅ぼし、その子孫が[[後北条氏|北条氏]]を自称した。この北条氏と[[上杉氏]]が関東の覇者を巡って戦い、1546年[[河越夜戦]]により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が[[古河御所]]を制圧して古河公方を掌握し、山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の[[上杉謙信]])を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。
 
関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城[[小田原城]]を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分して、[[北条氏康]]と[[里見義堯]](上杉陣営)による[[国府台合戦]]などの戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の[[佐竹氏]]、安房の[[里見氏]]などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める[[伊達氏]]によって[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]は南北両方面での戦いを余儀なくされた。
===中部===
====北陸====
[[越後国]]を上杉(長尾)氏、[[越中国]]を[[神保氏]]や[[椎名氏]]、[[能登国]]を[[畠山氏]]、[[越前国]]を[[朝倉氏]]、[[加賀国]]を[[一向一揆]]らが、それぞれ支配していた。
 
越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代[[長尾氏]]が台頭。その長尾氏から誕生した[[上杉謙信|長尾景虎(上杉謙信)]]は、1576年までに[[北陸地方 (広義)|北陸地方]]をほぼ制圧した。
 
越中では、神保氏が当初敵対していた一向一揆と結ぶも、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。
 
能登は守護の畠山氏が[[遊佐氏]]や[[長氏]]らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。1576年には、越後上杉氏の軍門に降り滅亡した。
 
越前では、[[斯波氏]]を追い落とした朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の[[一乗谷]]に京の貴族を迎えるなど栄華を極めていた。
====東海・濃尾====
[[美濃国]]に[[土岐氏]]が、[[尾張国]]と[[遠江国]]に[[斯波氏]]が、[[三河国]]に[[松平氏]]が、[[駿河国]]に[[今川氏]]が、一国一円割拠していた。
 
美濃国では、土岐氏の内部争いが展開されていた。その隙を突いて主君に取り入るも1542年にはその主君を追放して、美濃国主となったのが[[斎藤道三]]である。
 
尾張国は、朝倉氏の離反で越前を失った斯波氏の本拠となっていた。この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れた上に、京都での政争にも敗れて力を失った。やがて国内では、守護代・織田氏の傀儡的存在となる。1554年には、その織田氏の権力抗争に巻き込まれて切腹した[[斯波義統]]を最後に、尾張守護の斯波氏は断絶した。
 
三河国では、松平氏が[[松平清康]]の代で版図を雄飛させるが、1535年の[[森山崩れ|守山崩れ]]によって清康が家臣に殺されると、事態は一変。駿河の[[今川義元]]からの後援無しに家命を保てないほど、弱体化してしまった。
 
その駿河国の今川氏では[[今川氏親]]が、斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法・[[今川仮名目録]]を定めて領国支配力を高めていった。その子の今川義元の代には更に三河へも勢力を伸長。義元は1554年に、[[甲斐国]]の武田氏や関東の北条氏と[[甲相駿三国同盟|三国同盟(善徳寺の会盟)]]を結んで、西進政策を強化した。
====甲信====
[[甲斐国]]・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠する状態となっていた。
 
甲斐国では[[甲斐源氏]]の流れを汲む武田氏が[[上杉禅秀の乱]]に荷担して没落していたため、戦国時代に至るまで国内での抗争状態に陥っていた。一方、信濃国では、深志(現在の松本地方)に[[小笠原氏]]、北信を[[村上氏]]・[[高梨氏]]、[[木曾地域|木曾]]を[[木曾氏]]、[[諏訪地域|諏訪]]を[[諏訪氏]]、東信に[[海野氏]]など国人領主が割拠していた。
 
やがて、[[武田信虎]]が甲斐一国を統一し、[[甲府市|甲府]]を本拠地と定め隣国との和睦も達成して[[信濃侵攻]]を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。
 
[[武田信玄]]は信濃侵攻を本格化し、[[甲相駿三国同盟]]を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って甲越対決([[川中島の戦い]])を幾度も繰り広げた。その後、北進から南進へ方策を転換し[[駿河侵攻]]を断行、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。
===近畿===
初期の[[畿内]]においては[[足利将軍家]]と[[管領]]の[[細川氏]]との抗争が繰り広げられた。ただし、この抗争は[[大内氏]]などを主体とする地方勢力が[[足利氏]]を利用して中央介入を試みた側面が強い。[[細川氏]]が内部の権力闘争により弱体化すると、[[足利氏]]を補佐するという名目で、[[近江国]]の[[六角氏]]による介入が強まった。近江においては、[[佐々木氏]]の一族である北近江の[[京極氏]]と南近江の六角氏が覇を競ったが、京極氏は支配下にあった[[国人]]の[[浅井氏]]によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。
 
基本的には各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。[[河内国]]の[[畠山氏]]、[[但馬国]]の[[山名氏]]、[[丹後国]]の[[一色氏]]、[[若狭国]]の[[武田氏]]などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。
 
[[紀伊国]]では[[高野山]]・[[根来寺]]・[[熊野三山]]などの[[寺社勢力]]の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。紀伊の[[地侍]]は連合して[[根来衆]]・[[雑賀衆]]などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。
 
先に述べた[[足利氏]]や[[細川氏]]の内紛は[[六角氏]]や[[赤松氏]]・[[浦上氏]]・[[畠山氏]]・[[筒井氏]]など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、本格的な騒乱は[[三好氏]]の政権掌握以降となる。彼らは領国の[[阿波国]]を始め、[[讃岐国]]、[[淡路国]]、[[摂津国]]、[[和泉国]]、[[河内国]]、[[山城国]]、[[丹波国]]、[[大和国]]などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。
===中国===
初期は[[大内義興]]と[[尼子経久]]との対立があった。大内義興は[[勘合貿易]]を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に霸を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら[[富田城]]を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。
 
両勢力の接点にあった[[安芸国]]では国全体の[[国人]]が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、[[国人]]の一人[[毛利元就]]が集団の統率者となり戦国大名化した。毛利元就は[[尼子氏]]を裏切り[[大内氏]]についたため、[[尼子晴久]]が[[吉田郡山城]]へ向けて進軍。毛利元就は[[大内義隆]]に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する([[吉田郡山城の戦い]])。大内氏の内部争いによって大内義隆が死亡し、8ヶ国守護となった尼子晴久と[[大内義長]]を傀儡とする[[陶氏]]が共に力を持ち拮抗するが、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には[[出雲国]]においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の[[島根県]][[安来市]]にあった[[月山富田城]]に篭城するが兵糧攻めにあい開城した([[月山富田城の戦い]])。これにより毛利氏は中国の覇者となる。
===四国===
東四国([[阿波国|阿波]]・[[讃岐国|讃岐]])は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。
 
阿波は細川氏が支配した。のち撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には[[勝瑞城]]が阿波統治拠点となった。讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の一存を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。
 
[[伊予国|伊予]]は守護の[[河野氏]]が中予、[[宇都宮氏|伊予宇都宮氏]]が大洲一帯、[[西園寺氏]]が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。
 
[[土佐国|土佐]]の守護は細川氏であるはずだが、七守護([[土佐七雄]])と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた[[土佐一条氏|一条氏]]を盟主と仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った[[長宗我部国親]]・[[長宗我部元親]]が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして土佐平定後10年かけて[[1585年]]に四国を統一した。[[淡路国|淡路]]は守護・細川氏が統治していたようだ。
===九州===
九州の[[武家]]は[[平家]]方だったため[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]からの信頼感は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた[[少弐氏]]、[[大友氏]]、[[島津氏]]を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、[[筑前国|筑前]]・[[肥前国|肥前]]・[[豊前国|豊前]]は少弐(武藤)氏、[[筑後国|筑後]]・[[肥後国|肥後]]・[[豊後国|豊後]]は大友氏、[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]が島津氏と九州の統括体制がなされ、その下に[[地頭]]として[[平安時代]]以来の[[松浦氏]]、[[秋月氏]]、[[蒲池氏]]、[[菊池氏]]などの元平家方の武家が盤踞していた。戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の[[国人]]豪族は自立するべく、戦いが展開していった。
 
しかし、少弐氏の勢力は[[九州探題]]に敵対したために室町時代後期には既に衰えており、[[宗像氏]]や[[麻生氏]]など筑前・豊前の国人は中国地方の[[大内氏]]の影響を受けた。少弐氏は肥前・[[対馬国|対馬]]の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた[[龍造寺氏]]の下克上により滅ぼされた。この大内氏が[[陶氏]]によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は[[大友氏]]の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした[[毛利氏]]友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。
 
大友氏は豊後を拠点に南筑後の[[蒲池氏]]を筆頭とする[[筑後十五城]]が盤踞する筑後、さらに[[阿蘇氏]]や[[相良氏]]の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。また[[大友義鎮|大友宗麟]]は同時に[[キリスト教]]を保護し南蛮貿易を盛んにした。しかし大友氏は島津氏との[[耳川の戦い]]で大敗、家臣や幕下の[[国人]]の離反が相次いで急速に衰えていく。それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、[[龍造寺隆信]]の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、[[沖田畷の戦い]]で隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の[[鍋島直茂]]が替わった。
 
島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の[[島津忠良]]の子・[[島津貴久]]が本家を継いだ。[[祁答院氏]]、[[菱刈氏]]、[[肝付氏]]などの数多いた豪族と戦いに明け暮れ、その後、島津貴久の息子の[[島津義久]]の指揮の下、[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]を統一。[[木崎原の戦い]]以後は[[伊東氏]]を平らげ、大友宗麟との[[耳川の戦い]]で大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。
==武田信玄と上杉謙信==
[[武田信玄]]の本名は武田晴信、[[甲斐]][[守護]][[武田信虎]]の息子だ。
 
[[1536年]]、わずか16歳の晴信は信濃の[[海ノ口城]]を攻略して苦戦あげく城主[[平賀源心]]を討殺するのに成功した。
 
以後信虎がだんだん狂悖の傾向を見せると、家臣たちは晴信と議論したあげくクーデターを起こして信虎を駿河へ退出させた。
 
==桶狭間の戦い==
[[永禄]]3年(1560年)、[[桶狭間の戦い|桶狭間]]では、
===織田軍===
*'''本隊'''
*[[織田信長]](総大将)
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[池田恒興]]
*[[河尻秀隆]]
*[[前田利家]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[柴田勝家]]
*[[佐々政次]]
*[[長谷川橋介]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[林秀貞]]
*[[佐々成政]]
*[[金森長近]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[森可成]]
*[[佐脇良之|佐脇藤八]]
*[[毛利秀頼]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[岩室重休]]
*[[簗田政綱]]
*[[千秋四郎]]
</div><br style="clear: both;" />
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''丸根砦'''
*[[佐久間盛重]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''鷲津砦'''
*[[織田秀敏]]
*[[飯尾定宗]]
*[[飯尾尚清]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''善照寺砦'''
*[[佐久間信盛]]
*[[佐久間信辰]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''丹下砦'''
*[[水野忠光(戦国武将)|水野忠光]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''中島砦'''
*[[梶川高秀]]
*[[梶川一秀]]
</div><br style="clear: both;" />
===今川軍===
*'''駿府城留守居'''
*[[今川氏真]](今川家当主)
*'''本隊'''
*[[今川義元]](総大将・前今川家当主)
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[松井宗信]]
*[[朝比奈元長|朝比奈親徳]]
*[[庵原元政|庵原之政]]
*[[松平政忠]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[井伊直盛]]
*[[朝比奈秀詮]]
*[[庵原忠縁]]
*[[松平宗次]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[蒲原氏徳]]
*[[久野元宗]]
*[[庵原忠春]]
*[[関口親永]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[三浦義就]]
*[[久野氏忠]]
*[[藤枝氏秋]]
*[[長谷川元長]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[由比正信]]
*[[吉田氏好]]
*[[一宮宗是]]
*[[富永氏繁]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*[[岡部長定]]
*[[江尻親良]]
*[[斎藤利澄]]
*[[飯尾乗連]]
</div><br style="clear: both;" />
*'''本隊先発隊'''
*[[瀬名氏俊]]
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''丸根砦攻撃隊'''
*[[徳川家康|松平元康]]
*[[石川家成]]
*[[酒井忠次]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''鷲津砦攻撃隊'''
*[[朝比奈泰朝]]
*[[本多忠勝]]
*[[本多忠真]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''鳴海城'''
*[[岡部元信]]
*[[山口教継]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''大高城'''
*[[鵜殿長照]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''沓掛城'''
*[[浅井政敏]]
*[[近藤景春]]
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*'''清洲方面展開'''
*[[葛山氏元]]
*[[葛山信貞]]
</div><br style="clear: both;" />
信長は[[佐々政次]]、[[前田利家]]などに別動隊を与えて[[鳴海城]]を攻撃するようにする一方、自分は本隊を導いて桶狭間で今川軍を奇襲した。義元は消極的抵抗あげく戦死して、合戦は織田軍の勝利で終わった。合戦後に信長は[[熱田神宮]]に[[築地塀]](信長塀)を奉納した。
 
その後には織田信長、[[豊臣秀吉]]など[[天下統一]]で移行する武将たちが登場する。
 
==関ヶ原==
[[慶長]]5年([[1600年]])9月15日、[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]では、
 
'''東軍''' - '''[[徳川家康]]'''([[松平清康]]の孫) '''VS''' '''西軍''' - '''[[石田三成]]'''
 
この合戦は東軍の圧勝で終わって、西軍の敗将らは誰を処刑(三成自分を含み)して、誰を改易して、誰を減封しようかがだんだん決まった。
 
==江戸時代==
合戦で勝った[[徳川家康|家康]]は、[[慶長]]8年([[1603年]])、[[将軍宣下]]、[[江戸幕府]]を開いて[[江戸時代]]が始まる。慶長10年([[1605年]])、家康は、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・[[徳川秀忠|秀忠]]への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。慶長12年([[1607年]])には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の[[大御所 (江戸時代)|大御所]]」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた。関ヶ原でまだ解決されない問題は[[慶長]]19-20年([[1614年]]-[[1615年]])の'''[[大坂の陣]]'''で現われる。
 
'''東軍''' '''[[徳川家康]]''' '''VS''' '''西軍''' '''[[豊臣秀頼]]'''(秀吉の息子)
 
[[1615年]][[5月]]初、[[豊臣秀頼|秀頼]]一家は自害して、大坂城は陷落された。秀頼には1男1女がいたが、息子[[豊臣国松|国松]]が処刑され、娘は[[鎌倉市|鎌倉]]の[[東慶寺]]に送れ、女僧で一生を送った。[[大坂の役]]で西軍の主力だった[[長宗我部盛親]]も結局逮捕、5月中旬に処刑された。
 
家康は余生を幕藩体制の基礎に力を注ぐ。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に家康が死去した後、秀忠は将軍親政を開始した。
 
元和9年([[1623年]])、[[徳川家光]]は父秀忠とともに上洛し、7月27日に[[伏見城]]で将軍宣下を受け、[[正二位]][[内大臣]]となる。今度は秀忠が[[大御所]]になる順番。寛永9年([[1632年]])1月に大御所秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から[[公方]]として親政を始める。寛永14年([[1637年]])の[[島原の乱]]を経て寛永18年([[1641年]])までに[[鎖国]]体制を完成させた(ただし、鎖国という言葉や概念が生まれるのはずっと後のことである)。ただ[[長崎]]の[[オランダ]]、[[清|中国]]の商人たち、[[対馬藩]]を経って[[瀬戸内海]]、[[東海道]]に入って来る[[朝鮮通信使]]のみを認める。
 
寛永18年(1641年)には嫡男の[[徳川家綱|竹千代]]が生まれる。
 
慶安2年(1649年)、[[慶安御触書]]を公布して農民の生活指針を定めた。
 
慶安4年([[1651年]])4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日([[10月2日]])、[[江戸城]]において[[征夷大将軍|将軍宣下]]を受けて第4代将軍に就任し、[[内大臣]]に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。
 
家綱は幕府の創業体制を守城体制で切り替えた。彼の治世には[[老中]]らがほとんど実権を掌握する傾向を見せた。
 
[[延宝]]8年([[1680年]])5月、彼の弟[[徳川綱吉]]が将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために[[内大臣]]および[[右近衛大将]]となりさらに将軍宣下を受ける。
 
宝永6年([[1709年]])、綱吉が亡くなり、彼の甥[[徳川家宣]]が48歳で第6代将軍に就任した。
 
正徳2年([[1712年]])、家宣が死去した。正徳3年([[1713年]])、彼の息子徳川鍋松は[[徳川家継|家継]]と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。
 
[[享保]]元年([[1716年]])に第7代将軍・[[徳川家継]]がわずか8歳で早世し、[[徳川将軍家]]の血筋([[徳川家康]]の三男・[[徳川秀忠]]の男系男子)が絶えた後を受け、[[徳川御三家|御三家]]の中から家康との世代的な近さを理由に、[[紀州藩]]出身の[[徳川吉宗]]が御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任した。
 
吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の[[館林藩]]、第6代将軍・徳川家宣の[[甲府徳川家]]は、当主が将軍の継嗣として[[江戸城]]に呼ばれると廃藩にされ、甲府徳川家の藩士は[[幕臣]]となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の[[徳川宗直]]に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから[[加納久通]]・[[有馬氏倫]]ら大禄でない者を二十数名選び、側役として従えただけで[[江戸城]]に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える[[譜代大名]]や[[旗本]]から好感を持って迎えられた。
 
将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣時代からの[[側用人]]であった[[間部詮房]]や[[新井白石]]を罷免し、[[側用人]]政治から将軍[[親政]]に復した。
 
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、[[水野忠之]]を[[老中]]に任命して財政再建を始める。[[定免法]]や[[上米の制|上米令]]による幕府財政収入の安定化、[[新田開発]]の推進、[[足高の制]]の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる[[大岡忠相]]の登用、また訴訟のスピードアップのため[[公事方御定書]]を制定しての司法制度改革、江戸[[町火消し]]を設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである[[享保の改革]]を行った。また、大奥の整備、[[目安箱]]の設置による庶民の意見を政治へ反映、[[小石川養生所]]を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの[[蘭学]]興隆の一因となる)といった改革も行う。そして、第4代将軍・[[徳川家綱]]時代から続いていた学問を奨励する[[文治政治]]を見直し、武芸を奨励する[[武断政治]]を志した。一方で年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、[[一揆|百姓一揆]]の頻発を招いたが、江戸幕府の三大改革の中で最も成功したものとして高く評価されている。吉宗の改革が無ければ、江戸幕府の崩壊はもっと早く到来したであろうとする意見も多い。
 
この当時、[[近松門左衛門]]の[[人形浄瑠璃]]の影響で流行した[[心中]]を抑制するために、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所でさらしものにさせる、といったことも行っている。
 
[[延享]]2年([[1745年]])に吉宗は[[隠居]]して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、彼の息子[[徳川家重]]は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし[[宝暦]]元年([[1751年]])までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承は家重の長男・[[徳川家治]]が非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。
 
家重の時代は吉宗の推進した[[享保の改革]]の遺産があり、[[徳川綱吉|綱吉]]が創設した[[勘定吟味役]]を充実させ、現在の[[会計検査院]]に近い制度を確立するなど、幾つかの独自の経済政策を行った。しかしながら負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により[[一揆]]が続発し(直接には宝暦5年([[1755年]])の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の[[大岡忠光]]のみが聞き分けることができたため忠光を重用し、[[側用人]]制度を復活させた。[[田沼意次]]が[[大名]]に取り立てられたのも家重の時代である。
 
宝暦10年([[1760年]])、徳川家治は父の[[隠居]]により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。そして父・家重の遺言に従い、[[田沼意次]]を[[側用人]]に重用し、[[老中]]・[[松平武元]]らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死去すると次第に幕政を老中に任命した田沼意次に任せ、自らは好きな[[将棋]]などの趣味に没頭することが多くなった。
 
田沼意次は[[印旛沼]]・[[手賀沼]]干拓を実施し、[[蝦夷地]]開発や対[[ロシア]]貿易を計画する。[[安永 (元号)|安永]]8年([[1779年]])、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年([[1781年]])に一橋家当主・[[徳川治済]]の長男・[[徳川家斉|豊千代]]を自分の養子とした。
 
将軍徳川家斉の在任中の天保4年([[1833年]])、[[天保の大飢饉]]が起きた。この飢饉は次代将軍[[徳川家慶]]の時の天保10年([[1839年]])まで続いた。
 
==近代の日本==
日本の鎖国体制は嘉永6年([[1853年]])、米海軍のペリー提督が日本に内港して、開港を要求することで終止符を取って、以後10余年間は戦国時代の再版ということができる[[幕末]]の混乱が展開される。
 
その混乱の終わりに幕府は[[慶応]]3年([[1867年]])、[[明治天皇]]に政権を返還して、天皇は[[1868年]]に年号を明治に改元して、明治2年([[1869年]])には長年の首都京都を発って江戸、すなわち東京に遷都します。以後の40余年は西洋文化が伝わる明治時代になる。[[長崎市|長崎]]、[[横浜市|横浜]]、[[神戸市|神戸]]、[[新潟市|新潟]]、[[函館市|函館]]など5個港口が開港場に選定されたし、基存の[[藩]]が[[県]]で取り替えられた。明治5年([[1872年]])には日本最初の鉄道である[[東海道本線]]が開通したし、明治6年([[1873年]])[[1月1日]]から太陽暦が採用された。明治22年([[1889年]])、ドイツ憲法の影響を受けた[[大日本帝国憲法|憲法]]が発布された。外には清、ロシアとの戦争を行う。
 
明治39年(1906年) [[清国]]公主来日。(公主は[[西太后]]の甥孫娘) [[東京]]到着時、総理大臣[[西園寺公望]]が迎接。[[帝国ホテル]]で宿泊。[[皇居]]で[[明治天皇]]謁見。[[伊勢神宮]]も参拜。
 
==現代の日本==
[[大正天皇]]([[1912年]]-[[1926年]])の時代に経験した[[第1次世界大戦]]の結果をおいて、日本の軍部は日本は残物だけ渡されただけだと反撥して、その次、[[昭和天皇]]([[1926年]]-[[1989年]])の時代の前半期に軍部が政権を完全掌握する。現代思潮の中に天皇の権威に抵触するものなどはきっぱりととり除いてしまって、外では昭和6年([[1931年]])、満州を掌握して、昭和7年([[1932年]])、[[満洲国]]を立てる。昭和10年([[1935年]])、満洲国皇帝[[康徳帝]]来日。引き続き、昭和12年([[1937年]])、[[日中戦争]]に突入して国際社会が経済封鎖を通じて日本を制裁すると、日本は[[ドイツ]]、[[イタリア]]と枢軸を形成する一方、昭和16年([[1941年]])、[[真珠湾]]を攻撃、[[太平洋戦争]]に突入する。一瞬のうちに東南アジアを席巻するようだったのにアメリカの総反撃にますます滞って、昭和20年([[1945年]])、[[広島市|広島]]、[[長崎市|長崎]]への原子爆弾投下をきっかけで昭和天皇の[[玉音放送|大東亜戦争終結ノ詔書]]で戦争は終わる。
 
[[GHQ]]の主唱で始まった[[戦後]]の改革で「戦後の自由化」が始まって戦後経済再建が進捗される。
 
[[手塚治虫]](本名・治)は[[1928年]][[11月3日]]、[[大阪府]][[豊中市|豊能郡豊中町]]に生まれた。
 
戦後の初期、
 
[[日本国憲法|新憲法]]が公布された[[1946年]]、手塚は『[[マァチャンの日記帳]]』([[毎日小学生新聞|少国民新聞]])で[[デビュー]]した。
 
* [[1947年]] - 漫画同好会に参加。『[[新宝島|新寳島]]』発表。
* [[1951年]] - 1年[[原級留置|留年]]し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。
* [[1952年]] - [[医師]][[免許]]取得。『アトム大使』からのスピンオフ『鉄腕アトム』を引き続き『[[少年 (雑誌)|少年]]』 に連載。[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]に[[下宿]]する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。後の「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。
 
[[1953年]]、手塚は[[豊島区]]椎名町のアパート[[トキワ荘]]に入居した。(同年末に[[寺田ヒロオ]]も入居)<ref>伊吹隼人『「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝』p.39(社会評論社、2010年)</ref>
* [[1954年]] - [[藤子不二雄]]([[藤子・F・不二雄]]、[[藤子不二雄Ⓐ]])がトキワ荘に入居。
* [[1955年]] - [[鈴木伸一]] トキワ荘に入居。
* [[1956年]] - 鈴木伸一、[[森安なおや]] トキワ荘で共同生活開始。[[石森章太郎]](後に[[石ノ森章太郎]]と改名)、[[赤塚不二夫]]、[[よこたとくお]]などもトキワ荘に入居。
[[東京タワー]]が建てられた[[1958年]]、[[水野英子]]がトキワ荘に入居した。
 
漫画家たちがトキワ荘に住む期間は短くは1年で長くは4年だった。
* [[1963年]] 1月1日『[[鉄腕アトム]]』([[鉄腕アトム (アニメ第1作)]])- 初の毎週放送の本格的テレビアニメ。テレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢とされている。1966年12月31日まで放送。全193話。一部カラー制作されたが、放送はモノクロ。
* 3月24日『[[わんぱく王子の大蛇退治]]』古事記に基づく東映動画制作の劇場用アニメ映画。大蛇と天早駒にまたがるスサノオの空中戦は300カット、動画1万枚を超える画期的なものであった。また[[伊福部昭]]の担当した音楽も評価が高い。
* 4月7日、『銀河少年隊』(虫プロダクション) [[日本放送協会|NHK]]としては、初の国産テレビアニメシリーズ。ただし竹田人形座繰演の人形劇との組み合わせであった。
* 9月4日、『[[仙人部落]]』 フジテレビで放送された初の深夜アニメ。
* 10月20日、[[横山光輝]]の『[[鉄人28号]]』が初の巨大ロボットアニメに放送された。
* 11月8日、『[[エイトマン]]』 テレビ局とスポンサー主体でタイアップ製作された最初のアニメ作品
* 11月25日、『[[狼少年ケン]]』 原作漫画を持たない、日本初のアニメオリジナルストーリーのアニメ。[[東映アニメーション|東映動画]]初のテレビアニメーションでもある。
* [[スタジオ・ゼロ]]設立。
 
[[東京オリンピック]]が開催された[[1964年]]、[[0戦はやと]]、[[少年忍者風のフジ丸]]、[[ビッグX]]などが放映された。
 
[[大阪万博]]が開催された[[1970年]]、[[動物村ものがたり]](NETテレビ)、[[いたずら天使チッポちゃん]](フジテレビ)、[[あしたのジョー]](フジテレビ)、[[ばくはつ五郎]](TBS)、[[昆虫物語 みなしごハッチ]](フジテレビ)、[[赤き血のイレブン]](日本テレビ)、日本誕生(日本テレビ、『ノンフィクションアワー』で放送)、[[キリンものしりシリーズ|キリンものしり大学 マンガ人物史]](毎日放送)、[[男どアホウ甲子園]](日本テレビ)、[[キックの鬼]](TBS)、[[いなかっぺ大将]](フジテレビ)、[[のらくろ]](フジテレビ)、[[いじわるばあさん]](読売テレビ)、われらサラリーマン党(フジテレビ)、[[魔法のマコちゃん]](NETテレビ)などが放映された。
 
鉄腕アトムは[[練馬区]]で製作された事がある。[[1965年]]には『[[ジャングル大帝]]』(10月から全53話)がやっぱり練馬区で製作されて初のカラーテレビアニメシリーズで放送された。以後にも『[[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]]』、『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』、『[[銀河鉄道999]]』などアニメ史に残る名作たちが練馬区で制作された。
 
これを通じて[[アニメ]]は、戦後文化の大きな比重を占めている。
 
後日だが、日本は経済大国としてアメリカも脅威する。
 
==!!!==
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