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第二次内乱からアブドゥルマリク時代を加筆
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ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。攻撃対象は[[サーサーン朝]]との抗争で衰弱していた[[東ローマ帝国]]であった。
 
=== 第二次内乱 ===
ムアーウィヤ死後、[[ヤズィード1世]]の時代に[[カルバラー]]の悲劇という事件がおこる。アリーの次男[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]は[[シーア派]]の[[クーファ]]市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、[[メッカ]]からクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、[[ユーフラテス川]]の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍4000の圧倒的な数の差の前に敗れた。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。
ムアーウィヤ死後、[[ヤズィード1世]]がカリフとなった。{{仮リンク|第二次フィトナ|en|Second Fitna|label=第二次内乱}}([[680年]] - [[692年]])の始まりである。この第二次フィトナは、シーア派によるウマイヤ家への挑戦と[[アブドゥッラー=イブン・アッズバイル]]によるウマイヤ家への挑戦の二段階に分けられる。
 
ムアーウィヤ死後、[[ヤズィード1世即位直後の[[680年]]の時代に[[10月10日]]、'''[[カルバラー]]の戦い|カルバラーの悲劇]]'''という事件がった{{sfn|佐藤|2008|p=116}}。アリーの次男[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]は[[シーア派]]の[[クーファ]]市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、[[メッカ]]からクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、[[ユーフラテス川]]の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍40004,000の圧倒的な数の差の前に敗れた{{sfn|佐藤|2008|p=116}}。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。フサインの殉教は、シーア派にとって、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為である一方で、スンナ派カリフに対する復讐の念がやがて、ウマイヤ朝末期の反ウマイヤ家運動において結実する{{sfn|佐藤|2008|p=117}}。フサインの殉教の日は、その後、彼の死を悼む[[アーシューラー]]の日となった{{sfn|佐藤|2008|p=117-119}}
その後、相次ぐカリフの死去の中、[[680年]]に{{仮リンク|第二次フィトナ|en|Second Fitna|label=第二次内乱}}([[680年]] - [[692年]])が起きる。メッカのイブン・アッズバイル(初代カリフ、[[アブー・バクル]]の長女の子)はカリフを宣言して一時広大な領土を保有し、イラクのクーファではシーア派のムフタールが、アリーの子のムハンマドをマフディー(救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした。しかし、こちらはイブン・アッズバイル側に鎮圧され、イブン・アッズバイルも[[アブドゥルマリク]]の任命した司令官ハッジャージュ・ブン・ユースフにより討たれた。
 
[[683年]]、ヤズィード1世が死亡した。ヤズィードの後を息子の[[ムアーウィヤ2世|ムアーウィヤ]]が継いだものの、そのムアーウィヤも数十日で死亡したことで、ウマイヤ朝をめぐる情勢が大きく変化した。第二次フィトナの第二段階である。[[メッカ]]のイブン・アッズバイル(初代カリフ、[[アブー・バクル]]の長女の子)はカリフを宣言し、イラクやエジプトの民からバイア(忠誠)を受けた{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。[[685年]]には、イラクのクーファで、シーア派の{{仮リンク|ムフタール・アル・サッカーフィー|en|Mukhtar al-Thaqafi|label=ムフタール}}が、アリーの子で、フサインの異母兄弟にあたる{{仮リンク|ムハンマド=イブン・アル・ハナフィーヤ|en|Muhammad ibn al-Hanafiyyah|label=ムハンマド}}を[[マフディー]](救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。ウマイヤ朝内部は、三者の鼎立状態となったものの、しかし、こちらはイブン・アッズバイルの弟であるムスアブが鎮圧した{{sfn|佐藤|2008|p=120}}。
第二次内乱後、ハッジャージュによるイラク統治で治安が回復されていったが、それは厳しく激しいもので、特にイラクのシーア派は非常に厳しい状況に置かれた。
 
一方、ムアーウィヤ2世、[[マルワーン1世]]と短命のカリフが続いたウマイヤ家では、[[アブドゥルマリク]]が[[685年]]、第5代カリフとなった。アブドゥルマリクのカリフの最初の仕事が[[ヒジャース]]地方、イラク、エジプトで勢力を蓄えていたイブン・アッズバイルの討伐であった。[[692年]]、アブドゥルマリクは、{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}を討伐軍の司令官に任命した{{sfn|佐藤|2008|p=121}}。ハッジャージュは、12,000人の軍隊を持って、メッカを包囲した({{仮リンク|メッカ包囲戦_(692年)|en|Siege of Mecca (692)|label=メッカ包囲戦}})。7ヶ月の包囲の末、ハッジャージュはメッカを攻略し、アッズバイルの一族はすべて殺され、ウマイヤ朝の再統一が完成した{{sfn|佐藤|2008|p=121}}。
 
=== 全盛期:アブドゥルマリクの時代 ===
アブドゥルマリクの時代には、[[アラビア語]]の公用化とアラブ貨幣の発行により、中央集権化が進んだ。アブドゥッズバイマリク討伐で功績をなしたハッジャージュクーファ総督に任命された。ハッジャージュのイラク統治は厳しく、イラク社会の治安は一定度、回復したと考えられる{{sfn|佐藤|2008|p=123}}。ハッジャージュは、反ウマイヤ家のイラクを平定後、東では[[クタイバ・イブン=ムスリム]]を東方遠征の司令官に任命した{{sfn|佐藤|2008|p=124}}。クタイバ]]がは、[[ブハラ]]や[[サマルカンド]]を征服し、[[フェルガナ]]地方まで進出、中央アジアにイスラームが広がるもととなった{{sfn|佐藤|2008|p=124}}({{仮リンク|ムスリムのトランスオクシアナ征服|en|Muslim conquest of Transoxiana|label=トランスオクシアナ征服}})。
 
一方、西では[[709年]]までに[[マグリブ]](北アフリカ)を[[東ローマ帝国]]から奪った({{仮リンク|ムスリムのマグリブ征服|en|Muslim conquest of the Maghreb|label=マグリブ征服}})。将軍{{仮リンク|ムーサー=イブン・ヌサイール|en|Musa bin Nusayr}}は、[[イフリーキヤ]]の[[カイラワーン]]を拠点に、[[ベルベル人]]の住む[[モロッコ]]を平定し{{sfn|佐藤|2008|p=124}}、ムーサー配下の[[ターリク・イブン・ズィヤード]]が、イベリア半島に進出して[[西ゴート王国]]を滅ぼした({{仮リンク|グアダレーテの戦い|en|Battle of Guadalete}})。[[ピレネー山脈]]を越え[[フランク王国]]領内に入ると、フランク王国の迎撃軍と衝突して[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]となったが、{{仮リンク|アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー|en|Abdul Rahman Al Ghafiqi|label=アル・ガーフィキー}}が戦死したウマイヤ軍は退却し、ピレネー山脈の南側まで戻った。一方、[[674年]]から東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]を連年包囲したが攻略できず、キリスト教勢力に対する攻勢は止まった。
 
この後、長い間地中海はイスラームの海となる。こうして東へ西へとウマイヤ朝は拡大してゆき、[[ワリード1世]]の治世である8世紀初頭に最大領域となった。
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# [[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]](744年)
# [[マルワーン2世]](744年 - 750年)
 
== 経済 ==
第5代カリフ・アブドゥルマリク以前の王朝の[[通貨]]は、イラン、イラクを中心とする旧ササン朝の領域は、'''ディルハム銀貨'''が流通していた{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。一方で、シリア、エジプトといった旧東ローマ帝国の領域は、ディナール金貨が流通していた{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。ウマイヤ朝により、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広範な地域がひとつの経済圏としてまとまり、「イスラームの平和」が確立し、商品流通が活発化したことで、旧来の貨幣システムが対応しきれなくなった{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。そこで、695年、アブドゥルマリクは、表に[[クルアーン]]の文句を、裏に自らの名前を刻んだ金貨と銀貨を発行した{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。このことで、アラブ世界は、金銀両本位制が確立し、この貨幣システムを基礎に、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払いが現金で可能となった{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。
 
== 税制 ==
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** [[イブン・ミスジャハ]] - イブン・ミスジャ。アラブ古典音楽の整備に功。
** ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったといわれる(現存せず)。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=佐藤次高||year=2008||title=世界の歴史8 イスラーム世界の興隆|publisher=中央公論新社|id=ISBN 978-4-12-205079-2|ref={{SfnRef|佐藤|2008}}}}
* 平凡社音楽大事典 - 西アジア項
* サラーフ・アル・マハディ「アラブ音楽 構造・歴史・楽器学・古典39譜例付」(松田嘉子訳、PASTORALE出版、1998年)