「山縣有朋」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 幕末 ===
[[天保]]9年([[1838年]])、[[萩城]]下近郊の[[阿武郡]]川島村(現在の[[山口県]][[萩市]]川島)に、[[長州藩]]の[[中間]]・[[山縣有稔]](ありとし)の長男として生まれる。<!--からはほど遠い下僕に近い--><!--ではなく[[武家奉公人|卒族]]の身分ながら←卒族とは明治期になってからの族称で足軽身分のものが該当した。江戸期に卒族という言葉は存在しない。さらに足軽以下の中間身分の山縣がそのまま明治期に移行しても平民に編入されたと考えられる-->[[足軽]]以下の中間身分ながら将来は[[槍術]]で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。このころ友人・[[杉山松助]]らに[[松下村塾]]への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる<ref>[[藤村道生]]『山県有朋』6頁</ref>。
 
安政5年([[1858年]])7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助・[[伊藤博文|伊藤俊輔]]らとともに上京し、[[尊皇攘夷]]派の大物であった[[久坂玄瑞]]・[[梁川星巌]]・[[梅田雲浜]]らに感化を受け9月に帰藩後に久坂の紹介で[[吉田松陰]]の松下村塾に入塾したとされる。松蔭門下となったことは出自の低い山縣が世に出る一助となったと考えられる。山縣が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。