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'''陸 伯鴻'''(りく はくこう、[[1875年]][[3月28日]] - [[1937年]][[12月30日]])は、元の名を陸熙順といい、[[カトリック教会|カトリック]]信者で[[20世紀]]前半における[[中国]]の著名な企業家かつ慈善家である。
 
==生涯==
===生い立ち===
1875年3月28日、陸伯鴻は中国[[上海]]南市中国地界の顧家弄に生まれ、洗礼名をヨ<!-- 新共同訳聖書の表記に準拠 -->といった<ref>[http://www.holyredeemer.cc/lopahong/pdf/TRA_Chapter1.pdf 陸伯鴻 傳]</ref>。
ここは当時[[カトリック上海教区|江南代牧区]]の司教座聖堂である[[董家渡聖方濟各沙勿略堂フランシスコ・ザビエル教会]]からとても近く、[[太平天国]]の戦乱中、江南地区の代々[[カトリック教会|カトリック]]を信仰している家庭は迫害を避けるために上海まで逃れ、司教座聖堂の側で居住した。その中で最も著名なのが青浦県から来た朱家、丹徒県から来た馬家および陸家であった。彼は互いに緊密な社交の輪を結成し、互いに婚姻を結び、周囲の非カトリック教徒と異なる宗教信仰と生活習慣を保持していた。彼はフランスと密接な繋がりがあり、子女の大多数は[[震旦大学]]に通い、卒業後はまたフランス商社の下で洋行して買い集め調達する任につくか、上海のフランス租界の公董局で職を探した。その中でも少なくない功績を建てた人物が出た。例えば、朱家は造船所の主で、上海全商業会議所の所長である[[朱志堯]]を、馬家は[[震旦大学]]、[[復旦大学]]二ヵ所の大学の創始者である[[馬相伯]](1840年—1939 — 1939年)と言語学者で中国初の文法の著作馬氏文通の作者である[[馬建忠]]の兄弟、そして陸家は大企業家で大慈善家である陸伯鴻を出した。
 
===秀才と商売===
少年時代の陸伯鴻もその他の中国の子供と同じように、学ぶのに十年の困難と辛苦を経ななければならなかった。彼は[[四書五経]]を学び、18歲で幸運にも[[秀才 (科挙)|秀才]]を取った。だが、[[1905年]]、清朝政府は[[科挙]]制度の廃止を宣言したので、大くの読書子は転じて新しい型の学校に進み、改めて外国に関することを学んだ。この時、陸家も陸伯鴻を董家渡司教座聖堂の龔神父に送り、そこでフランス語を学ばせ、後に法華新字典の編纂に加わった。この後、ベルギー洋行する職員とフランス租界の蒲石弁護士事務所の秘書を務めた。
 
20世紀初め、陸伯鴻は上海全商業会議所の代表となり、アメリカ、イタリア、スイス等に赴き、観光と視察調査をし、[[ローマ教皇]]の謁見を受けた。帰国後は実業を起こして国を救う計画を立て、その後続けて一連の工業、商業、交通等の企業を興し、上海の中国商人のリーダーとなった。
 
[[1911年]]、李平書の推薦により、陸伯鴻は接辦倒産の危機に直面した上海地電灯公司の経営を引き継いだ。彼は管理をしっかりとさせ、経営上の損失を補って収入を増加させ、さらに経営規模を拡大した。数年のに南市中国地界の電灯の数は元の1000余りから7万に激増し、中国地界と租界の市政建設方面での格差は迅速に縮小した。
 
[[1912年]]4月、上海では城壁を取り壊して大通りに改築して[[法華民国路]](今の人民路)と[[中華路]]にし、陸伯鴻はこの機会を利用して20万元を出資し、上海華商電車公司を創立し、上海華界で初の[[路面電車]]を開通させ、電車はこの市を囲む円形の大通りの上を走った。この線路の沿線は全て上海の旧市街で、人は緻密であり、とても早く客の流量を見ることが出来ると予想された。陸伯鴻は華商電車公司の全ての電車の先頭に自分の名前をもじった<ref>中国語で"陸伯鴻"の名は"緑白紅"に発音が似ている。</ref>緑、白、赤3色の電灯を取り付けて顧客を招き寄せた。開業してから華商電車の乗客は非常に多かったので、この後ずっと良好な経営業績を保った。[[1918年]]1月、電灯公司と電車公司は合併し、“上海華商電気股份有限公司”と改名した。[[1935年]]、南市の半淞園で新しい電力会社を建てた。[[1937年]]の[[日中戦争]]前夜に至るまで上海華商電気公司が每年得た利益は100万元に達した。陸伯鴻は電力工業方面で得た功績により、全国民栄電業合会委員長を担当した。
 
[[1913年]]11月、陸伯鴻は[[第一次世界大戦]]前夜の国際市場での鉄鋼価格の急速な値上がりの機会をつかんで、浦東の周家渡で製鉄所を創業して[[銑鉄]]を生産した。[[1921年]]、彼はドイツの商社との合資により成和興鉄鋼工場を拡張して、品質が最上の異型棒鋼を生産出来るようにし、[[江海関]]ビル、[[沙遜大廈]]、閘北水力発電所、フランス商社の元々之水道所と南京の[[中山陵]]の建造する需要に供した。[[1949年]]以後は名を上海第三製鉄所と改めた。
 
===布教活動===
陸伯鴻は龔神父と接触する間に熱心なカトリック教徒となり、聖職者ではなかったが、常にカトリックを信仰する実業家(合わせて19人)と、1912年から以熱心な信者の立場でで粗末な交通工具に乗って、上海附近の各農村に出かけて布教し、続いて教会、診療所と学校を建設した。陸伯鴻は[[カトリックアクション]]会会長を担当した。彼の布教活動方面の功績により、教皇は彼に爵位を授与し、彼に[[1926年]]は[[アメリカ]]の[[シカゴ]]および[[1937年]]は[[フィリピン]]の[[マニラ]]で挙行された2回の国際[[聖体]]大会に参加するよう招いた。
 
===慈善活動===
陸伯鴻は慈善活動に極めて熱心であり、前後して7ヵ所の慈善機構を創立した。
 
*新普育堂:普育堂は元は[[1865年]]に上海地方官府により支持された旧式の慈善機構で、上海大南門外の陸家浜南岸にあった。死んだ貧者には棺材を、貧者には衣食を施し、無料で診療して薬を出し、死んだ貧者と路上で倒れて亡くなった者を埋葬し、寡婦と孤独な老人には生活補助を提供し、捨て子等を拾って養育していたが、衛生条件は極めて酷く、蚊や蠅が繁殖していた。辛亥革命以後、当局は既に500人を救済することが維持できなくなった。1912年、陸伯鴻は許可を得て、取り除かれた城壁を利用しつつ一組の現代的な建築群を建設し、学校、工場、医療、養老、養育、障害、瘋癲(精神病)等の各部を設け、カトリック修道女を看護のために招いた。創立初めの6年で、収容して養育した男女は102525102,525人で、医療を施して薬を与えた者は21940702,194,070人に達した。これは20世紀前半で上海最大の社会的弱者を収容する施設であった。
*上海普慈療養院
*楊樹浦聖心医院:上海東北部楊樹浦鄱陽路の工員居住区にあり、側には一つの小学校と小さな教会(聖心堂)があった。
*中国公立医院
*南市時疫医院
*北京中央医院:1917年に建てられた。
 
陸伯鴻は既に名高い上海の大富豪であったが、本人はなお常に新普育堂に来て、前掛けを締めて自ら不衛生な病人に奉仕した。しかも彼の何人かの子供を側に立たせて、彼がどのように貧しい人に親切に接するか学べるよう便宜を図った。
陸伯鴻は既に名高い上海
の大富豪であったが、本人はなお常に新普育堂に来て、前掛けを締めて自ら不衛生な病人に奉仕した。しかも彼の何人かの子供を側に立たせて、彼等がどのように貧しい人に親切に接するか学べるよう便宜を図った。
 
この外、彼は金科中学(上海膠州路にあり、アメリカの[[イエズス会]]に管理を任せた)を含む5ヵ所の男女小中学校を創立した。
 
===暗殺===
[[1937年]][[8月13日]]、[[上海]]で[[第二次上海事変]]が勃発し、3月の戦闘で百万にも上る上海の中国地界である([[閘北]]、[[南市]])、そして[[虹口]]や日本勢力範囲と附近の江南地区から来た難民は上海の面積に限りがあり、元から人が極めて密集している二つの租界に入ってきて、空前の深刻な難民の危機となった。陸伯鴻自身の企業はこの時の戦争で全て麻痺状態に陥ったが、政府の計画に合わせて、自分の客船一艘を江蘇省[[江陰]]附近の[[長江]]の中に沈めて、日本軍が西に向かって[[南京]]に侵入するのを阻止した。陸家が長年居住してきた南市董家渡の一帯も戦闘地区となり、[[上海フランス租界]]の[[震旦大学]]が所在する呂班路(重慶南路)への転居を余儀なくされたので、彼は[[重慶南路聖伯多祿堂|聖伯多祿堂]]の信者となった。しかし、この時も陸伯鴻はなお慈善事業を放棄しようとはせず、彼はその数が百万を数える不幸な人々に対して無為に過ごすことに甘んじようとはしなかった。そこで彼は進んで日本占領軍と接触して深刻な難民危機の解決を試み、上海地区改組委員会の参加に同意した。
 
[[1937年]][[12月30日]]、陸伯鴻は呂班路の住宅前で車に車して新普育堂の仕事を助ける手伝う準備をしていた時に、蜜柑みかん売に偽装した男の襲擊に遭遇して亡くなった。62歳であった。彼の死はずっと謎であるが、彼が日本人と接触したことと関係がある可能性がある。
 
==脚注==
<references />
==参考文献==
*沙百里:《中国基督徒史》、巴黎斯克勒出版社、1992年
*[http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2249/nanshi/node45048/node45050/node63580/userobject1ai51577.html 南市区志—第三十五編人物]
*[http://www.shtong.gov.cn/node2/node2245/node4441/node58159/node58260/node58266/userobject1ai46116.html 上海電力工業志—第九編人物]
*費成康:《中国租界史》、上海社科学院出版社、1991年
 
==外部リンク==
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