「ヤヌシュ・コルチャック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sube (会話 | 投稿記録)
Sube (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
[[Image:Janusz Korczak.PNG|right|180px|ヤヌシュ・コルチャック]]
'''ヤヌシュ・コルチャック'''(Janusz Korczak, [[1878年]][[7月22日]] - [[1942年]][[8月]])は、[[ポーランド]]の[[小児科学|小児科]]医、[[児童文学]]作家で教育者。本名は、ヘンリク・ゴルトシュミット。[[ユダヤ人|ユダヤ]]系ポーランド人。1911年からはユダヤ人孤児のための[[孤児院]]ドム・シエロ院長となり、子供たちの児童教育に関する著書もいくつか書いており、児童の権利とう概念の先駆者となった。しかし[[ナチス・ドイツ]]によるポーランド占領下において、孤児院の子供とともに[[ホロコースト]]の犠牲となった。日本においては「コルチャック先生」と表記されることが多い。
 
 
39行目:
[[画像:Yad_Vashem_BW_2.JPG|thumb|イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑([[1978年]]、Boris Saktsier)]]
 
1942年8月6日、[[ナチス]]のいわゆる「[[ユダヤ問題の最終解決]]」の名の下、孤児院の200人の子供たちは、孤児院を出て、緑の旗を立てて、[[集荷場 (ワルシャワ・ゲットー)|集荷場]]と名付けられたユダヤ人をゲットーから移送するための駅まで行進し、親衛隊により[[トレブリンカ強制収容所]]に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、恐らく到着した1942年8月6日に、子供たちと共にガス室で殺害された。あるいは、遺体を埋めるための大きな穴(現在のトレブリンカの強制収容所の跡地の22番と番号の振られた箇所)の前で、子どもたちと共に銃殺されたという説もある。トレブリンカの犠牲者の記念碑は、数多くの自然石を配列したもので構成されている。そのうちの一部には、これらの犠牲者がここに移送されてきた土地の名、都市名や小さな町や村の名が刻まれているが、そのうち唯一例外的に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれている記念碑がある。
 
{{clear}}
91行目:
 
== 没後 ==
*1989年11月20日に国連総会で採択された「[[児童の権利条約]]」は、もともとコルチャックによる「子どもの権利」のアイディアに基づきポーランド政府が提案したものである。
*ポーランド政府は、コルチャックの名を記念して、子どもの権利と生活のために多大な貢献をした人に授与するヤヌシュ・コルチャック賞を設けている。日本からは、[[黒柳徹子]]が『[[窓際のトットちゃん]]』でこれを受賞している。
*1957年、[[エルヴィン・シルヴァヌス]]による劇『コルチャックと子どもたち』が初演、ドイツの第二次大戦後最も数多く上演された舞台劇の一つに数えられる。