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陰陽道の最盛期といわれる平安中期頃から、安倍氏、賀茂氏などの国家陰陽寮の陰陽師により方位や月日の吉凶が記された陰陽雑書などが記される。陰陽道の代表的な書籍とされ、地相と家相の記述がなされるようになる。現代では、建造物の向きや室内設備の方位の吉凶をさまざま論じているが、当時は、室内設備の吉凶はなく、「井戸」、「竈」、「厠」の吉凶の記載に限られていたと、「家相の民俗学」という書籍で、(お茶の水女子大学准教授)宮内貴久は述べている。つまり現代の家相は、派生をしすぎた物でもある。
 
== 鬼門の言い伝え 真実 ==
現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、[[鬼門]]の方角に魔よけの意味をもつ、ひいらぎ南天を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをし、家相を気にする思想があり、根強い鬼門を恐れる社会現象がある。十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が[[未申]]であることから、[[サル|猿]]の像を鬼門避けとして祀ったりしたと、[[京都御所]]の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、[[鬼門]]に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきたが、正式な御所の、猿ヶ辻の名称由来は、上記のような理由ではなく、魔除けのために鬼門方位の[[日吉山王社]]の神の使いとされる猿を祀ることによるものである。
 
また、[[京都御所]]の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。しかし、京都御所、清涼殿の南西隅、すなわち裏鬼門の位置に、鬼の間が存在している。平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏に大和絵師、[[飛鳥部常則]]が康保1(964)年,この間の壁に鬼を退治する白沢王像を描いたとされ、壁に描かれていた王は、白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王で、鬼を捕らえた剛勇の武将と伝えられており、現存する御所にもその南西の隅に鬼の間が存在することが、禁秘抄釈義 上巻 関根正直 著に記述されており、御所内で鬼と勇猛に戦っていたと考えられる。
NHKブックス発行の建築歴史学者、(東京工業大学教授、名古屋工業大学名誉教授)[[内藤昌]]の著書「城の日本史」によると、[[安土城]]、[[丹波福知山城]]、[[安土城]]を真似たといわれる[[岡山城]]にも、地階、もしくは一階の東北部、すなわち鬼門方位に厠(トイレ)を設けることが当時の常道であったと書かれており、姫路城などでは、鬼門だけでなく裏鬼門である、南西隅にも厠が配置されていたと記述されており、当時は建物の対角線からみた中心点を基準とした鬼門方位に厠を設けることを単純に嫌っていたわけでないことが記載されており、一般的に伝えられている家相とは違い、あえて鬼門方位に厠を作ることを常道として築城は行われていたこと、また建物四隅の鬼門は恐れていないことが興味深いと研究されている。
 
NHKブックス発行の建築歴史学者、(東京工業大学教授、名古屋工業大学名誉教授)[[内藤昌]]の著書「城の日本史」によると、[[安土城]]、[[丹波福知山城]]、[[安土城]]を真似たといわれる[[岡山城]]にも、地階、もしくは一階の東北部、すなわち鬼門方位に厠(トイレ)を設けることが当時の常道であったと書かれており、姫路城などでは、鬼門だけでなく裏鬼門である、南西隅にも厠が配置されていたと記述されており、当時は建物の対角線からみた中心点を基準とした鬼門方位に厠を設けることを単純に嫌っていたわけでないことが記載されており、一般的に伝えられている家相とは違い、あえて鬼門方位に厠を作ることを常道として築城は行われていたこと、また建物四隅の鬼門は恐れていないことが興味深いと研究されている。
 
御所や城など、当時の統制者が、鬼を自然災害や疫病、大火などと考え、鬼は恐れていたものの、毅然と戦っていたことがうかがわれる。
 
==時代変遷==