「フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (トルブチェフスク公)」の版間の差分

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==生涯==
フセヴォロドの[[年代記]]上の初出は[[1160年]]の、父のスヴャトスラフが[[キエフ大公]][[ロスチスラフ1世|ロスチスラフ]]に捕らえられた際の記述においてである。おそらく[[1164年]]に[[クルスク公]]となった。[[1169年]]にキエフ大公[[ムスチスラフ2世|ムスチスラフ]]の指揮する[[ポロヴェツ族]]への遠征軍に参加した。[[1175年]]、兄の[[オレグ・スヴャトスラヴィチ (ノヴゴロド・セヴェルスキー公)|オレグ]]と共に[[スタロドゥーブ]]へ向かった。オレグはフセヴォロドに、自身の所有地の中から[[分領公国|分領地]]を贈った。
[[リューベチ諸公会議]]の後の[[1180年]]、[[チェルニゴフ公]](兼キエフ大公)スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Всеволодович (князь киевский)|(ru)]]と共に[[ウラジーミル大公]][[フセヴォロド3世|フセヴォロド]]の元へ行き、ヴレナ川<!--[[:ru:Веля]]ここ?-->で[[リャザン]]の公たちを追い払った。その後[[チェルニゴフ]]へと帰還し、[[1183年]]にもう一人の兄の[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ]]と共にヒリヤ川([[ホロール川]])へのポロヴェツ族に対する遠征に向かい、勝利した。
 
『イパーチー年代記[[:ru:Ипатьевская летопись|(ru)]]』の[[1185年]]の頁では、[[デスナ川]]中流域の都市・トルベツク([[トルブチェフスク]])を領するトルプチェフスク公として言及されている<ref>木村彰一 「付録 イーゴリの遠征にかんする『イパーチイ年代記』の記事」 // 『イーゴリ遠征物語』p126</ref>。一方、『[[イーゴリ軍記]]』においてはクルスク公となっており<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』p23</ref>、おそらくこの時にはクルスクとトルプチェフスクとを両有していたと思われる。いずれにせよ、1185年にポロヴェツ族への遠征を行ったフセヴォロド、兄イーゴリ、甥ウラジーミル[[:ru:Владимир Игоревич|(ru)]]らはポロヴェツ族に敗北し、捕虜となった。フセヴォロドと甥のウラジーミルがルーシに帰還したのは[[1187年]]のことである。[[1191年]]に、イーゴリと共に再びポロヴェツ族への遠征を行ったが、戦闘には至らず帰還した。
 
[[1194年]]、キエフ大公スヴャトスラフ3世[[:ru:Святослав Всеволодович (князь киевский)|(ru)]]の招集によるロゴヴォ諸公会議{{refnest|group="注"|ロゴヴォは[[ブリャンスク州]]の地名。ルーシの諸公会議については[[:ru:Съезды русских князей]]参照。}}の決定に従い、フセヴォロドは領土争いの解決のために[[リャザン]]へ行く準備を整えていた。しかしチェルニゴフ領域の公たちはフセヴォロドの決定に猛反発し、フセヴォロドは自領に留まった。
 
[[1196年]]、チェルニゴフで急死した。年代記には、フセヴォロドはオレグ家[[:ru:Ольговичи|(ru)]]{{refnest|group="注"|フセヴォロドの祖父オレグ[[:ru:Олег Святославич|(ru)]]を祖とする[[リューリク朝]]の一系統。フセヴォロドもこの中に含まれる。詳しくは[[:ru:Ольговичи]]参照。}}の全てに比して別格であり、、威風堂々たる風貌と、慕わしい愛嬌を有していたという主旨の記述がある。