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はじめ[[鳥羽上皇]]の近臣で、[[崇徳上皇]]が親範の目を潰したとの報告(誤報)に臨終の鳥羽上皇が「御目をきらりと見上げ」たという<ref>『[[愚管抄]]』</ref>。
 
同4年([[1174年]])、[[大原]][[三千院|極楽院]]にて[[出家]]、戒師は「来迎院縁忍」、法名は「相蓮房'''円智'''」。
 
後に洛北の[[出雲寺]]を[[再興]]、同寺に祖父伝来の平等・尊重・護法の3寺を併せた一堂を建立し、私領を寄進した<ref>寄進地は[[伯耆国]][[宇多河荘|宇多河東荘]]・[[矢送荘]]、[[但馬国]][[木前荘]]。</ref>。同年[[建保]]2年([[1214年]])にはその[[起請文]]を作成している。