「マシュー・ロック」の版間の差分

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'''マシュー・ロック'''('''Matthew Locke''', [[1621年]]または[[1622年]] おそらく[[デヴォン]] - [[1677年]]8月 [[ロンドン]])は[[イングランド]]初期[[バロック音楽]]の[[作曲家]]。[[イギリス]]最初の[[オペラ]]作曲家であり、[[ヘンリー・パーセル]]に強い影響を及ぼした。
 
== 生涯 ==
[[エグゼター]]大聖堂の少年聖歌隊員として音楽活動に入り、[[オルガン]]教育もそこで受けた。[[オーランド・ギボンズ]]の兄エドワードに師事。オーランド・ギボンズの息子[[クリストファー・ギボンズ|クリストファー]]とも知り合いとなり、その後も2人はしばしば協力関係を結んだ。エグゼター大聖堂のオルガニストの称号を得る
 
[[イングランド内戦]]の時期に、皇太子時代の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と知り合ったが、チャールズ2世の[[オランダ]]における亡命宮廷に仕え、その地で声楽曲を作曲していたかどうかは疑わしい。[[王政復古]]後はチャールズ2世の寵臣となる
 
[[1653年]]に、[[ポルトガル]]大使の歓迎式典のために、マスク《キューピッドと死神》をクリストファー・ギボンズと共作する。ジェームズ・シャーリーの台本によるこの作品は現存しているものの、最初の英語オペラと見なされている《ロードス島の攻囲 The Siege of Rhodes》([[1656年]]~)は、あらかた散逸していて現存しない。《ロードス島の攻囲》は、ヘンリー・クックら他の数人の作曲家との共作であり、台本作家はウィリアム・デイヴナント卿であった。
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器楽曲や劇音楽に加えて、ロックは[[アンセム]]の作曲家でもある。ロックのアンセムは単純明快でわりあい聴きやすく、それでいてしばしば驚くほどの衝撃力を秘めている。ロックのアンセムはとりわけ[[ジョン・ブロウ]]に影響を及ぼした。
 
生前ロックは、多くの同僚作曲家から嫉妬の目を向けられたが、非常に人気の人物でありつづけた。[[サミュエル・ピープス]]は、ロックの作品の価値を評価している。イギリス・バロック音楽の開拓者として、ロックはしかるべき地位に就いていた。パーセルは宮廷作曲家としてロックの後を継ぎ、ロックのために追悼音楽を作曲した。後世になるとロック作品はやや忘れられがちであったが、[[20世紀]]になると関心が取り戻された。かつてイギリスのバロック音楽におけるロックの重要性が、再認識されるようになったのである
 
== 作品一覧 ==