「輝昇勝彦」の版間の差分

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[[1922年]][[1月26日]]に[[北海道]][[留萌市]]にて[[官吏]]の家に二男として生まれる。子供の頃から留萌町(現:留萌市)の相撲大会で怪力ぶりが話題となり、その評判を聞きつけた高嶋から勧誘されて入門、[[1937年]]5月場所に[[初土俵]]を踏んだ。体格面ではほとんど恵まれていなかったが、一日3000回の鉄砲を行ったと伝わる猛稽古で後の武器となる[[突っ張り]]を鍛え上げ、突き押し相撲で[[序二段]]・[[三段目]]で優勝、幕下も1場所で通過して[[1941年]]1月場所において新[[十両]]昇進、19歳で関取となった<ref>ベースボール・マガジン社刊『国技館100周年/協会機関誌・相撲60周年記念 蘇れ!国技大相撲』「60年を彩った名力士、個性派力士100人」より</ref>。
 
十両昇進後も突き押し相撲の威力は増すばかりで、僅か2場所目で14勝1敗の好成績で十両優勝を果たすと同時に、[[1942年]]1月場所での[[新入幕]]を決定的にした。新入幕では12勝3敗でいきなり[[優勝旗手]]を務め、出羽一門の[[増位山大志郎]]・[[豊嶌雅男]]と対抗する連合方の新鋭として、[[神風正一]]と共に注目を浴びる存在となった。同年5月場所ではその場所後に[[横綱]]へ昇進する[[照國萬藏]]を破ったほか、[[1943年]]1月場所では9勝6敗ながら2度目の優勝旗手を務めるなど、ここまで負け越し知らず(三段目で1場所のみ4勝4敗の五分がある)のまま[[関脇]]へ昇進した。
 
しかし、[[1944年]]11月場所の直前に応召のため全休し、[[1945年]]6月場所では番付外(西小結格)で2勝5敗と、[[第二次世界大戦]]における食糧難もあって力を発揮することが出来なかった。戦後は[[1946年]]11月場所で照國萬藏から金星を奪った他、[[1947年]]11月場所には小結ながら照國萬藏の他に[[汐ノ海運右エ門]]・[[東富士欽壹]]を破り、7勝4敗で敢闘賞を受賞(この場所から制定され、受賞第一号)した。しかし、[[1948年]]5月場所で左[[肘]]関節を捻挫する怪我を負って途中休場してからは下位に低迷し、さらに[[糖尿病]]の影響もあって相撲も精彩を欠いた。取り口としても、戦後からは単調な相撲振りや持久力の乏しさを原因とした長期戦に対する弱さや「組んだら三段目」と評される四つ相撲の拙さが顕在化しい行った。現役末期は右アキレス腱断裂の重傷によって十両に陥落し、[[1956年]]3月場所を最後に現役を引退した。引退後は廃業して[[プロレス]]転向を試みるも負傷で出場すら果たせず、[[TBSテレビ]]の相撲解説者を務めるも、力士の精神論ばかりで技術論が全く無いことから早々と降板した。降板後は板橋で雑貨店を経営していたが、[[1967年]][[2月20日]]に死去、{{没年齢|1922|1|26|1967|2|20}}。