「ユージン・オニール」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 誕生から放浪の青年期まで ===
1888年10月16日、[[ニューヨーク]]のホテルで誕生する。父は当時の有名舞台俳優で、母は女子修道院学校時代にはピアニスト志望だったこともある専業主婦。ユージン・オニールの家族は[[コネチカット州]]のニューロンドンに夏別荘を所有していた。オニールの最初の記憶は、夏の間そこで過ごしたことである。
 
オニールは父親の旅公演について行き幼児期を過ごした。カトリック系の寄宿学校を出て、[[プリンストン大学]]に入学するが勉強には興味がなく、もっぱら「読書・酒・女」の日々を過ごす。1907年、大学を中退。ニューヨークの通信販売の会社で働き始めるが直ぐに退職。その後、性急に結婚。金鉱発掘の助手、父親の劇団の俳優や助手、ニューロンドンの新聞記者など、さまざま職を転々とした。数年間にわたり船乗りとして働いたことがあり、その時期の経験は、オニールの戯曲中に題材として何度も取り上げられている。
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19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカ演劇は、ブロードウェイを中心とする商業主義・娯楽主義の支配下で停滞しており、世界的に注目されるような卓越した作品がほとんど生まれなかった。演劇人側から、停滞を打破し芸術的改革をおこなおうとする動きはあった。そのアメリカ演劇が、ヨーロッパのようにリアリズムを作劇に取り入れて具体的に「近代化」するのは、劇作家ユージン・オニールの登場と時期を同じくする。
 
1916年、[[マサチューセッツ州]]プロビンスタウンに拠点を置く小劇場劇団を、オニールは自作の戯曲を持って訪れた。劇団員による朗読の後、オニールは熱烈に迎え入れられ、その戯曲を上演することになった。これが、演劇の改革を志していた劇団の一つ The Provincetown Players(プロビンスタウン・プレイヤーズとオニールの出会いである。
 
その時朗読された作品が、オニールのデビュー作『カーディフを指して東へ』(Bound East for Cardiff)である。オニール本人もこの劇に出演した。英国のカーディフ港に向かう貨物船の船倉を舞台とする一幕劇。主人公の老水夫は死の床の中、人生に絶望している。主人公は見果てぬ夢を抱いたまま、カーディフに着く前に死に至る。オニール自らが船員だった経験を活かし、その生活を当時としては革新的なリアリズムの手法で提示しつつ、夢・希望・友情・孤独・絶望などについて描いている。この戯曲は同年に埠頭を改造した小劇場で上演され、大好評をもって観客に受け入れられた。
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1932年以降、オニールは神経性疾患を患った。さらに肺疾患の兆候もあり、以降、病苦と闘いながら晩年を過ごすことになる。1936年、ノーベル文学賞受賞が決まったが、その時も入院中だった。二番目の妻アグネスとの間に生まれた娘ウーナは、喜劇王[[チャールズ・チャップリン]]の最後の妻であった。
 
1953年、ユージン・オニールは、[[ボストン]]のホテルの一室で死亡。
 
最期の言葉は、"I knew it. I knew it. Born in a hotel room, and God damn it, died in a hotel room." であった。
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*『地平線の彼方』 - ''Beyond the Horizon'' (1920年初演)
**地平の彼方 [[清野暢一郎]]訳.岩波文庫、1935
**地平の彼方 [[竹之内明子]]訳, 日本教育研究センター, 1997
*『皇帝ジョーンズ』 - ''The Emperor Jones'' (1920年初演)
**皇帝ジョーンス [[本田満津二]]訳.金星堂,1925.先駆芸術叢書