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[[1996年]]、[[第41回衆議院議員総選挙]]に自民党から出馬し、初当選。以降6期連続当選。
 
当選後は全ての[[自民党の派閥]]から誘われたが雄弁会の先輩の[[三塚博]]会長・[[森喜朗]]が会長代行の[[清和政策研究会]]へ入会。同年、[[自由民主党青年局|自民党青年局長]][[安倍晋三]]の下で同次長。[[2000年]]、[[第42回衆議院議員総選挙]]に自民党から出馬し、再選。自民党「[[明日を創る会]]」のメンバー。[[2002年]]、[[衆議院]][[議事進行係]]に就任。自民党の文部科学部会副部会長。[[2003年]]、法務大臣政務官に就任。{{要出典範囲|date=2014年2月24日 (月) 00:25 (UTC)|刑務所、少年院、教護院などの視察、教育に関するセミナーの開催などを行った}}。
 
[[2005年]]、文部科学大臣政務官に就任。{{要出典範囲|date=2014年2月24日 (月) 00:25 (UTC)|未来を見据えた教育のあり方、法整備に関する官民学の勉強会を立ち上げる}}。その後、自民党副幹事長に就任。{{要出典範囲|date=2014年2月24日 (月) 00:25 (UTC)|[[皇室典範]]改正に対しては、慎重な姿勢を見せている}}。{{要出典範囲|date=2014年2月24日 (月) 00:25 (UTC)|[[2006年]][[8月29日]]、日本政策研究センターのシンポジウムで、「いわゆる“[[自虐史観]]に基づいた歴史教科書”も官邸のチェックで改めさせる」との意向を表明した}}。同年[[9月26日]]、[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]の[[内閣官房副長官]]に就任。{{要出典範囲|date=2014年2月24日 (月) 00:25 (UTC)|幼保一元化を推進するための制度改革に着手}}。[[福田康夫内閣]]では「留学生三十万人計画」の委員会委員長。
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