「新井将敬」の版間の差分

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[[1983年]]の[[第37回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党]]・[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]新人候補として[[東京都第2区_(中選挙区)|旧東京2区]]から初出馬するも落選。この選挙で、対立候補であった[[石原慎太郎]]陣営から新井の出自を「元北朝鮮人」とする[[噂#流言|流言]](前述の通り、朝鮮籍=北朝鮮人を意味しないため、明らかな虚偽)を新井の選挙ポスターに貼り付ける[[黒シール事件]]が起こり、石原を[[告訴・告発|告訴]]している(後に告訴取り下げ)。石原は当初「秘書が勝手にやった」と発言していたが、民族的出自を誹謗したことに関しては「選挙民は立候補した人のパーソナルヒストリーを知る権利がある」とした。新井はこの事件をきっかけに[[右翼]]活動家[[野村秋介]]と知り合い、終生つきあうこととなる。
 
[[1986年]]の[[第38回衆議院議員総選挙]]で初当選し以後連続4回当選する。このとき、新井が大蔵省に入省したときの[[事務次官]]で[[後援会]]の初代会長も務めた[[鳩山威一郎]]の長男[[鳩山由紀夫]]は新井の選挙区内(東京都[[大田区]])の住民であるにもかかわらず、[[北海道第4区_(中選挙区)|北海道4区]]から出馬して当選、新井と同期になった(当選同期に[[斉藤斗志二]]・[[三原朝彦]]・[[村井仁]]・[[逢沢一郎]]・[[金子一義]]・[[武村正義]]・[[杉浦正健]]・[[園田博之]]・[[中山成彬]]・[[谷津義男]]・[[笹川堯]]・[[武部勤]]・[[井出正一]]・[[村上誠一郎]]など)。自民党では[[中曽根康弘]]→渡辺美智雄派に所属した。
 
[[1992年]]に[[東京佐川急便事件]]が発覚すると、疑惑が取りざたされた[[金丸信]]・[[自由民主党副総裁|自民党副総裁]]を激しく批判し、金丸と[[竹下登]]に対して議員辞職を要求する。政治改革・[[小選挙区制]]導入の是非が政局の焦点になると、改革派の若手論客として[[テレビ]]に出演し、脚光を浴びるようになる。[[赤城徳彦]]らも当時、新井と行動をともにした。新井の言説は歯切れがよく、金丸が率いていた[[平成研究会|竹下派]]の議員だけでなく、[[小選挙区制]]導入反対の急先鋒だった[[小泉純一郎]]や石原慎太郎をも'''「守旧派」'''と断じ批判した。[[1993年]]の[[自由民主党 (日本)|自民党]]の分裂では自民党に残るが(実は武村・園田・鳩山・井出・三原が結成した[[新党さきがけ]]に自身も参加希望したが拒否された)、[[細川護煕]]の後継をめぐる渡辺美智雄擁立劇では先行離党し、[[柿沢弘治]]、[[太田誠一]]、[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]]、[[山本拓 (政治家)|山本拓]]、[[高市早苗]]、[[米田建三]]らと[[自由党_(日本 1994)|自由党]]を結成する。その後、[[院内会派]]・[[自由改革連合]]を結成。
 
[[1994年]]12月、[[新進党]]結党に参加し、新進党東京都連では幹事長を務めたが、[[小沢一郎]]の党運営への反発から[[1996年]]6月に離党する。その後、初の小選挙区制で行われた[[第41回衆議院議員総選挙]]にも無所属で出馬し、自民党公認を得ていた中選挙区時代からの対立候補・[[大内啓伍]]を破って再選。選挙後、同じく新進党を離党し無所属で再選した[[船田元]]、[[石破茂]](新井と同じく86年衆院選当選同期)らと新会派「21世紀」を経て自民党に復党した。復党後はかつて所属していた渡辺派ではなく、[[清和政策研究会|三塚派]]に所属した。同派入りは、当時の三塚派幹部だった[[亀井静香]]の働きかけによるものである。