「原健三郎」の版間の差分

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[[1986年]]7月の第106特別国会で「自民300議席」という絶対多数のもと第65代[[衆議院議長]]に就任。大型間接税([[売上税]]・[[消費税]])導入をめぐる税制改正問題に加えて[[1988年]]に発覚した[[リクルート事件|リクルート]]問題など厳しい国会運営を強いられ<ref name="47news20041106">{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/200411/CN2004110601003507.html | title = 原健三郎元衆院議長が死去 議員在職50年余り | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2004-11-06 | accessdate = 2012-11-11 }}</ref>ながらも、第113臨時国会(「税制国会」)での消費税導入を含む税制改革関連6法の成立に尽力した。しかし、[[1989年]]の第114通常国会における予算案の強行採決をめぐる混乱により6月に辞任。予算案は憲政史上初めて自民党により単独採決となった。なお、衆議院の議長・副議長・仮議長をすべて務めたのは原一人である。
 
50年の議員生活から、[[1996年]]には[[尾崎行雄]]、[[三木武夫]]に続いて史上3人目となる[[名誉議員]]の有資格者となったが、財政難などで同認定されていない(尾崎・三木の前例では国会内に[[銅像]]が建てられる)。最後の選挙となった1996年の[[第41回衆議院議員総選挙]]では「ハラケン危うしお助けください」をスローガンに苦しい選挙運動を繰り広げるが、[[兵庫県第9区]]では[[新進党]]の[[宮本一三]]に敗れ、[[比例近畿ブロック]]で[[復活当選]]「神風が吹いた」。[[1999年]][[中曽根派]]から移行した[[志帥会]]の旗揚げに参加。
 
[[2000年]]の[[神の国衆議院解散]]を機に20期54年の議員生活を終え、93歳という衆院歴代第2位(1位は[[尾崎行雄]])の高齢で政界を[[引退]]した<ref name="47news20041106"/>。従来から「生涯現役、死ぬまで議員をやる」と事あるごとに発言していたが、自民党がこの時に比例区73歳[[定年]]制を導入し更に宮本復党で9区も出馬[[重複立候補]]が不可能となったため。同時に引退した年下の[[櫻内義雄]]とともに、明治生まれ最後の国会議員だった。銅像建立の夢は「財政難」などから野党の同意を得られず、実現しなかった。引退後は地元関西のテレビやラジオにコメンテーターとして出演しながら晩年を過ごした。主な出演番組は『[[迫って!GABURI。]]』([[毎日放送]])、『[[さてはトコトン菊水丸]]』(MBSラジオ)内の「教えてハラケン」など。
 
[[明石海峡大橋]]の建設にも強い執念を燃やした。架橋が夢物語だと思われていたころには「ハラケン」をもじって「ハシケン」「ホラケン」などとも揶揄されたが、最終的にこれを実現へと導いた。国会に銅像を立てる念願こそ果たせなかったが、明石海峡大橋のたもとにはこの功績を称える銅像が立てられている。[[第42回衆議院議員総選挙]]では通産官僚経て自身の秘書だった[[西村康稔]]が後継者たる保守系無所属新人として出馬し自民党現職宮本に惜敗
 
[[2003年]][[第42回衆議院議員総選挙]]では西村が再度出馬し宮本破り初当選、西村が会派「[[グループ改革]]」結成し初の[[首班指名]]で[[小泉純一郎]]支持した上で自民党移籍後の[[2004年]]11月6日1時52分、心不全のため[[東京都]][[渋谷区]]広尾の自宅で死去した。[[享年]]97<ref name="47news20041106"/>。
 
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