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== 組閣 ==
前の[[内閣総理大臣]]である[[近衛文麿]]は、[[中国]]および[[仏領インドシナ]]からの日本軍の撤兵や[[日独伊三国同盟]]からの脱退などを要求する[[アメリカ合衆国]]と、これに反対する[[大日本帝国陸軍|陸軍]]との板挟みとなり、事実上の[[内閣改造|改造内閣]]である[[第3次近衛内閣]]の発足後3ヶ月で突如東條[[陸軍大臣|陸相]]と決裂して閣内不一致となり、これを受けて後継内閣が模索されるさなかに一方的に内閣を投げだした。
 
後継内閣には、近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、[[陸軍大将]]の[[東久邇宮稔彦王]]を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。しかし、[[木戸幸一]][[内大臣府|内大臣]]が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対したため、あらためて[[重臣会議]]に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお同時に東條は、中将昇進後最低5年を経なければならない陸軍大将に異例の昇進をしている。
 
東條は首相・[[陸軍大臣]]・[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を兼ねて絶大な権力を一手に握り、「'''東條幕府'''」と揶揄された。組閣の大命を受けるにあたって[[昭和天皇]]から対米交渉の継続を示唆された<ref>9月6日の[[御前会議]]で決定された[[帝国国策遂行要領]]では10月上旬頃までに対米交渉がまとまる見込みがなければアメリカに対して開戦することを規定していたが、昭和天皇はこれを白紙に戻して再検討することを命じた(白紙還元の御諚)。</ref>東條は、その意を体して交渉派の[[東郷茂徳]]を[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に起用するなどしており、東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある<ref>[[森山優]] 『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』 第4章 p.100 新潮選書 2012年6月20日</ref>。陸相の兼摂は木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に行わせる意図による
 
[[大日本帝国海軍|海軍]]は[[海軍大臣]]に[[豊田副武]]を推薦したが、豊田の反陸軍的な姿勢に懸念を示す東條が、天皇による陸海軍協力の命を盾にとって拒否した。軍からの軍部大臣の推薦が拒まれたのは異例なことであったが、海軍内で影響力が大きかった[[伏見宮博恭王]](元帥)も豊田の推薦には苦言を呈していたこともあり、海軍は折れて、及川前海相が[[嶋田繁太郎]]を推薦しなおした。
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さらに戦時体制強化のため、[[大東亜省]]・[[軍需省]]をはじめとする省庁再編、人材登用、中央集権化を行った。東條自ら軍需大臣を兼任した結果、商工大臣だった[[岸信介]]は国務大臣兼務のまま軍需次官に異例の「格下げ」となった。一時は陸軍省・海軍省を解体し、「国防省」に再編する構想まであった。その中で、大東亜省設置に反対して東郷外相が辞任。さらに[[東京都制]]と[[市町村長]]の官選導入を柱とした[[市制]]・[[町村制]]改正に関わる[[帝国議会]]の審議過程で、[[翼賛政治会]]の反感を買った湯沢内相が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は戦局悪化とともに弱体化していった。
 
一方で元首相などの[[重臣会議|重臣たち]]と、[[高松宮宣仁親王]]海軍大佐らを中心とした皇族グループ(重臣の近衛は皇族ではないが[[摂家]]の筆頭であり[[公爵]]で、立場的に皇族に準じる)による[[倒閣]]工作が水面下で進行していく。対抗して東條は、重臣の閣僚起用で乗り切りを図る。しかし[[マリアナ沖海戦]]とそれに伴う[[サイパンの戦い|サイパン陥落]]によりアメリカによる本土爆撃が容易になったことから、岸国務相が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、ならば辞職せよという東條の要求を岸が拒んだため閣内不一致となり<ref>[[福田和也]] 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』第20回『尊攘同志会』pp.228-246</ref>、サイパン陥落の責任を取る形で[[1944年]](昭和19年)[[7月18日]]に東條内閣は総辞職した。
 
== 事績 ==
[[総力戦]]遂行のために、[[1942年]](昭和17年)に一般国民動員と国家補償を規程した法律「戦時災害保護法」が制定され、法第23条で、住宅・家財の給与金、法第24条で療養、障害、打切(切断)、遺族葬祭の給与金が規程された。([[1946年]](昭和21年)9月[[GHQ]]により廃止された。)<ref>[[http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0817.html 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]]</ref>
 
==閣僚==