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{{MedalBronze|[[ソウルオリンピック|1988 ソウル]]|ダブルス}}
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'''シュテフィ・グラフ'''('''Steffi Graf''', [[1969年]][[6月14日]] - )は、旧[[西ドイツ]]・[[マンハイム]]で父ピーターと母ハイジの間に生まれた女子プロ[[テニス]]選手。本名は「シュテファニー・マリーア・グラーフ」(''Stefanie Maria Graf'')というが、「シュテフィ・グラフ」の名で知られている。2歳年上の[[ボリス・ベッカー]]とともに、[[ドイツ]]テニス界の黄金時代を築いたスター選手である。素早い卓越したフットワークを基礎に強力なフォアハンド・トップスピンとバックハンド・スライスを武器にし、[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルス107勝(女子歴代3位)、うち4大大会22勝(女子歴代2位)、ダブルス11勝を挙げた。世界ランキング1位の在位記録は通算「377週」で、これは男女を通じての史上最長記録である。また、暦年(1988年)内にグランドスラム4大会すべてと開催されたオリンピックに優勝するという快挙「ゴールデン・グランドスラム」を達成した史上唯一のテニスプレーヤーでもある。現役引退後の2001年10月22日に[[アンドレ・アガシ]]と結婚、2児とともアメリカ・ラスベガス在住。[[2004年]]7月11日に[[国際テニス殿堂]]入りを果たした。
 
== バイオグラフィー ==
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===== 1970年代:児童期 =====
 
シュテフィは3才の時(1973年)、自動車と保険のセールスマンをしていた父ピーター・グラフ [Peter Graf (1938年6月18日 − 2013年11月30日)]の手ほどきで、ブリュールにあった自宅のリビングルームで初めて木製のラケットを手にした。4才になるとコートで練習を始め、5才のとき初めて試合に出場した。そのわずか2年後にはミュンヘンの伝統ある年少者向け大会「最後の大会(”Jüngsten-Turnier”)」で優勝したため、父ピーターは娘の並外れた才能を確信しそれからはシュテフィをプロとして成功させるのに専念した。彼は娘のトレーニングパートナーとして元世界92位のポーランド選手、ダニエラ・ノセクの協力を得た。
 
===== 1980-1986年:「神童」の台頭 =====
 
'''1981'''年 11才のシュテフィは初めてジュニアでない一般向けのドイツインドア選手権に出場し、旋風を巻き起こした。彼女はスピードと強く鞭打つようなフォアハンドで元世界ランク80位のエヴァ・パーフ(''Eva Pfaff'')をフルセットまで追い込んだのである。この状況を見たドイツの業界誌はシュテフィを「神童(”wunderkind”)」と表現し、ナショナルコーチ連盟は過去に比例のない才能の持ち主と認め、クラウス・ホフサスを専任コーチとして派遣することにした。同年代で彼女に対抗できる選手は世界中どこにもいなかった。
 
'''1982'''年 12才にしてドイツジュニア選手権13才―18才の部で優勝する。同年10月には13才4ヶ月でドイツのシュトゥットガルトで開催されたトーナメント、ポルシェ・テニス・グランプリに出場し、一回戦でUSオープン優勝二回の元世界ランク1位、[[トレーシー・オースチン]]に6–4, 6–0のストレートで敗退したが、WTAはシュテフィーをプロ選手として登録した。この早期のプロ転向には賛否両論が沸き起こり、特に専門家は「世紀の才能」が急激な心身の負荷によりバーンアウトする懸念を指摘した。しかし、その一週間後、シュテフィは最年少で世界ランクに214位で登場ランクインした。
 
'''1983'''年 初めてパリの全仏オープンに出場し、二回戦で敗退した。早々に敗退したにもかかわらず、その並外れたフォアハンドは専門家達の目を強く引き、「今まで見た3年以内の選手の中でもっとも有望な選手」と言われた。バーデン=ヴュルテンベルク州はグラフ父娘がテニスに専念できるよう、特別に中学校退校の許可を与えた。
 
'''1984'''年 全豪と全英それぞれ3回戦に勝ち進む。チャーチロードの「神聖な芝」と言われている全英で四回戦まで勝ち上がった15才のシュテフィーは、センターコートで第10シードの英国選手、[[ジョー・デュリー(”]]("''Jo Durie''”)を第三セット7-9まで追い詰めた。これにより、一躍その存在が国際的な注目を浴びるようになった。1920年代に二度ウィンブルドンで優勝した[[キャスリーン・マッケイン・ゴッドフリー|キャスリーン・ゴッドフリー]](“''Kathleen McKane Godfree''”)は、この試合を観戦したあと、「二年後彼女を倒すのは難しくなるだろう。」と述べた。
 
この予言を裏付けるように、その数週間後、シュテフィは最年少で参加したロサンゼルスオリンピックの公開試合で第8シードから優勝した。(オリンピックにおけるテニス競技は、[[1928年]]の[[アムステルダムオリンピック|アムステルダム五輪]]以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし[[1988年]]の[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。グラフは早くからオリンピック参加に積極的な姿勢を示し、[[1984年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年) におけるテニス競技|ロサンゼルス五輪]]「公開競技」で優勝した後、ソウル五輪の女子シングルス決勝で[[ガブリエラ・サバティーニ]]を 6-3, 6-3 で破って金メダルを獲得した。しかし、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピックにおけるテニス競技|バルセロナ五輪]]決勝では当時16歳の[[ジェニファー・カプリアティ]]に 6-3, 3-6, 4-6 で敗れて連続金メダルを逃し、[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|1996年アトランタ五輪]]では左膝故障のため出場断念を余儀なくされている。)<br />
 
秋にはフィルダースタッドで行われたWTAトーナメントの準々決勝に進み、トップ10にランクインしていた[[クラウディア・コーデ・キルシュ]]を破って決勝に進出した。これにより、年末にはランクが22位に上がった。
 
'''1985'''年 トーナメントの優勝こそなかったが、全仏、全英で4回戦まで進出し、順調にランクを上げ、年末には6位につけた。そしてシュテフィはマイアミのクレーコートトーナメントの準決勝で最高のベースラインプレーヤー、世界ランク2位の[[クリス・エバート]]と初めて対戦した。その後この年エバートにはヒルトンヘッド、ベルリン、全仏でも顔合わせしたがすべてエバートが勝っている。全英では世界ランク4位で芝の得意な[[パム・シュライバー]]に惜敗したが、将来のトップ選手としてのポテンシャルを十分に見せつけた試合となった。フラッシングメドウで行われたUSオープンでは4大トーナメントで初めて準決勝に進出した。ここで16才となったシュテフィは、クリス・エバートとともに1980年代世界の女子テニス界を支配していた、[[マルチナ・ナブラチロワ]]と対戦する。当時29才だったナブラチロワは6-2, 6-3で勝利したが、報道陣からは「いつかシュテフィがトップに君臨するのでは、か。」との質問をいくつ何回も受けた。<br />
 
 シュテフィのスケジュールは早熟選手に多い「燃え尽き症候群」を恐れた父ピーターによってきっちり管理されていた。そのため、1985年には同世代のライバル、アルゼンチンの[[ガブリエラ・サバチーニ]]がUSオープンまで21イベントも出場したにもかかわらず、シュテフィはたった10イベントしか出場しなかった。加えてピーターはシュテフィの私生活まで管理した。ツアーに伴う社交パーティー等はシュテフィが練習と試合に集中できるようしばしばピーターが断った。シュテフィは毎日4時間程度、ピーターとコーチのパベル・スロジル([[Pavel Složil]])と練習するのが常で、空港からコートに直行することもよくあった。もともと恥ずかしがりやで内向的な彼女は、このような競技環境にあってキャリア初期にはほとんど友達ができなかったが、その反面、プレーは確実に向上した。
 
'''1986'''年 4月13日、シュテフィはヒルトンヘッド/サウスキャロライナで開催されたファミリー・サークル・カップの決勝でエバートを破り、WTAトーナメントで初優勝を遂げた。(この勝利以来3年半に渡りシュテフィーは対エバート戦に7回勝利し負けることはなかった。)その後更にサンキストWTAチャンピオンシップ(アメリア島)、USオープンクレー(インディアナポリス/米)、ドイツオープン(ベルリン)と続けて3回優勝し、ドイツオープンでは決勝でナブラチロワを6–2, 6–3で下して勝利した。 しかし、病気のためにウィンブルドンを欠場しなければならなくなり、さらにその数週間後足の指が骨折するなどして競技を休まざるを得なくなった。モーウォー(ニュージャージー/米)での小規模なトーナメントで復帰し優勝はしたが、その直後の調子が万全とは思われないなかで迎えたUSオープンの準決勝でナブラチロワと対戦することとなった。試合は二日間に及び、ナブラチロワが3回のマッチポイントをしのいで6–1, 6–7, 7–6で辛勝した。その後シュテフィは 東レ・パン・パシフィック・オープン(東京)、ヨーロッパインドア(チューリッヒ/スイス)、プリティポーリークラシック(ブライトン/英)で三回連続インドアのタイトルを取得したが、シーズン最終のバージニアスリムスチャンピオンシップでは再度ナブラチロワと当たり6-7, 3-6, 2-6で敗退した。
 
===== 1987年:世界トップへブレークスルー =====
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1987年は世界トップへ突破口が開かれた年であり、同時にナブラチロワと二人で世界トーナメントの優勝を争っていた年である。シュテフィは75試合出場したった2試合しか落とさず、11トーナメントで優勝し、さらに初めてのグランドスラムタイトルを獲得して世界ランク1位についた。シュテフィのフォアハンドはさらに強靭となり、ラリーで優位に立った。このころ報道陣はシュテフィの強さを「フォアハンド嬢("Fraulein Forehand")」、または「無慈悲な伯爵婦人("Countess Merciless")」と表現したほどだった。年頭から7トーナメントに勝ち、連続45試合勝利は女子としては最長記録であり、好調なスタートを切った。
 マイアミ・マスターズでは準決勝でナブラチロワ、決勝でエバートを下し優勝したが、そのトーナメント全6回の試合で落としたゲームはたったの20だった。そして、その後の全仏の準決勝でサバティーニをフルセットで倒したあと、決勝で世界ランク1位のナブラチロワに6–4, 4–6, 8–6 で競い勝ち、念願のグランドスラム大会初優勝を遂げた。
しかしながら、全英では決勝でナブラチロワに7–5, 6–3敗退する。これはこの年初めての負けであった。その後3週間後のフェデレーションカップ(バンクーバー/カナダ)の決勝ではエバートを6–2, 6–1でたやすく破ったが、全米の決勝では再びナブラチロワに6-7, 1-6で屈した。しかしその年の8月16日にとうとう世界ランキング1位となり、った
[[1991年]]3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている
 
===== 1988年:先例なき年間ゴールデンスラム =====
 
1988年は全豪オープンの優勝で始まった。全豪の決勝ではエバートを6–1, 7–6で破り、って優勝した。トーナメント中一つのセットも落とさず、たった29ゲーム落としただけの勝利だった。 春、ライバルのサバティーニに二回負けた(ボッカ・レイトン/フロリダのハードコート、アメリア島/フロリダのクレーコート)が、サンアントニオ/テキサスで勝ち、マイアミでは再び決勝でエバートを下してタイトルを防衛した。そのあとはベルリンでのドイツ・オープンで、5試合中たった12ゲーム落としただけのみで優勝した。
全仏オープンでは決勝で[[ナターシャ・ズベレワ(Natasha]](''Natasha Zvereva)Zvereva'') を6–0, 6–0 (欧米ではゼロを丸いベーグルパンにたとえ、片方が1ゲームも取れない試合のことを「ダブル・ベーグル負け」と言っている。ちなみに、日本には同様な表現で「ダンゴ負け」というのがある。)、32分で退け、タイトルを防衛した。これは 1911以来、大きなトーナメントの決勝では初めてのダブル・ベーグルであった。 4回戦でナブラチロワを破ったナターシャは、決勝ではたった13ポイントしかとれなかった。<br />
 
次のウインブルドンはナブラチロワが6回連続で優勝していたところだった。決勝でシュテフィは初め7–5, 2–0ナブラチロワに押されていたが、 そこから13ゲーム中12ゲーム取る盛り返し最終的には5–7, 6–2, 6–1で初優勝した。ゲームの後半ではシュテフィの低めにコントロールしたパッシングショットが決まりまくり、ナブラチロワは得意のネットに出ることすらできなかった。この試合の後、ハンブルグ・マスターに勝ちモーワーで勝ったが、モーワーではたった8ゲームしか落とさなかった。<br />
 
全米オープンでは決勝でサバティーニをフルセットで破り、前回は1953年に[[モーリン・コノリー(Maureen]](''Maureen Connolly Brinker)Brinker'')[[マーガレット・コート(Margaret]](''Margaret Court)Court'')の決勝で達成されただけの、年間グランドスラム(Calendar Year Grand Slam)を達成した。
シュテフィはさらにソウル・オリンピックでサバティーニを6–3, 6–3 で破って金メダルを獲得したため、メディアはその偉業を「ゴールデン・スラム」と名付け讃えた。<br />
 
この年にはまた、ウインブルドンでサバティーニと組んでたった一つのダブルスタイトルを獲得している。また、同じペアでオリンピックダブルスの同メダルを獲得している。<br />
 
このように輝かしい経歴を残した1988年だったが、年末のバージニアスリムスWTAチャンピオンシップ(Virginia Slims Championships)では病気に悩まされ、パム・シュライバー (Pam Shriver)に負けてしまったが、これは、この年の負けたった3つのうちの一つである。<br />
この年シュテフィは「1988年BBC海外スポーツ選手賞( BBC Overseas Sports Personality of the Year)」に輝いた。また、生地ブリュールの名誉市民にも任命されている。<br />
 
===== 1989年:新たな挑戦者と自身への挑戦 =====
 
1989年の初頭、シュテフィの更なるグランドスラム達成が話題となった。マーガレット・コートはシュテフィがあと1-2回グランドスラムを達成する可能性があると述べた。その期待に応えるがごとく、全豪オープンでは決勝で[[ヘレナ・スコバ]]を破り優勝した。このトーナメントの準決勝でシュテフィがサバティーニを6-3,6-0で破った試合を見た業界ベテランのテッド・ティンリン(''Ted Tinling'')は、その感想を「今まで見た中で最も素晴らしい試合」と言い、さらに「シュテフィのサバティーニに対しての攻撃を見れば、彼女が他の誰よりも優れていることが分かる試合だった。」と付け加えている。
 
シュテフィはその後ワシントンDC、サンアントニオ(テキサス)、ボカレイトン(フロリダ)、ヒルトンヘッド(サウスキャロライナ)の4つのトーナメントで立て続けに優勝した。その中でもワシントンDCでは決勝でジナ・ガリソン相手に最初から20ポイント連続で取った。ボカレイトンでは決勝までの7試合でクリス・エバートに1セット落とした。
 
その後のアメリア島クレーコートの決勝ではサバティーニにこの年初となる負けを経験したが、続くヨーロッパのクレートーナメント、ハンブルグとベルリンでは楽勝した。
 
しかし、全仏オープンでは決勝で当時17才のスペイン人プレーヤー、[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]に3セットで破れ、シュテフィのグランドスラムトーナメントでの連続勝利はここでストップした。シュテフィは第3セット5-3まで追い込んでいたが、それから3ポイントしかとれず敗退した。しかし、続く全英オープンでは準々決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオ、準決勝でクリス・エバート、決勝でナブラチロワを6-2,6-7,6-1で破り優勝した。
 
それからサンディエゴ、モーワーで楽勝し全米オープンを迎える。そこでシュテフィは準決勝でサバティーニに3-6,6-4,6-2で勝ち、決勝でナブラチロワと対戦した。この試合ではナブラチロワが6-3,4-2と優勢だったが、そこからシュテフィが逆転し、3-6,7-5,6-1でこの年3つめのグランドスラムタイトルを取得した。続くチューリッヒ、ブライトンで勝ったあと、1989年を締めくくるバージニア・スリムス・チャンピオンシップの決勝でナブラチロワを6-4,7-5,2-6,6-2で下し、トップの座を不動にした。この年の戦績は86勝2敗で、落としたセットはたったの12セットだった。