「ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ」の版間の差分
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'''ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデ
中立の[[バーデン
== 略歴 ==
[[ブルボン家]]の支流[[コンデ公|ブルボン=コンデ家]]の出身で、コンデ公[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|ルイ5世ジョゼフ]]の息子[[ブルボン公]][[ルイ6世アンリ (コンデ公)|ルイ・アンリ]](後のルイ6世アンリ)と[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の娘[[ルイーズ・マリー・バティルド・ドルレアン|バティルド]]の一人息子として生まれた。
[[バスティーユ襲撃]]後
ところが[[ナポレオン・ボナパルト]]に対する暗殺計画(カドゥーダルの陰謀)の報復として、陰謀を企てた首謀者の
ルイ・アントワーヌの処刑は、その決定者が不明で、歴史のミステリーとなっている。直接的にはナポレオン本人に対する嫌疑は希薄で、ナポレオンを誤った方向に導いた[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]や[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]、[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]による陰謀説や、逮捕を指揮したサヴァリー将軍やユラン伯爵、レニエ司法大臣などの関与をにおわせる状況証拠がいくつかあるだけである。当事者達は互いに非難し
しかしこの処刑は図らずも、王族殺しの罪をナポレオンに着せることになり、欧州諸国の君主
▲直接的にはナポレオン本人に対する嫌疑は希薄で、ナポレオンを誤った方向に導いた[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]や[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]、[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]による陰謀説や、逮捕を指揮したサヴァリー将軍やユラン伯爵、レニエ司法大臣などの関与をにおわせる状況証拠がいくつかあるだけである。当事者達は互いに非難し合って矛盾する証言をしており、核心である誰が処刑を命じたかという部分がよく分かっていない。後に判明したことでは、ルイ・アントワーヌは[[王党派]]による陰謀には荷担していなかったが、結果的に王党派によるナポレオン暗殺未遂の黒幕として上げられた。アンギャン公はうやむやのうちに悲劇的な最期を遂げることになったわけである。
▲しかしこの処刑は図らずも、王族殺しの罪をナポレオンに着せることになり、欧州諸国の君主達の敵意を呼び覚まし、ナポレオンの個人的な罪として彼の生涯の汚点としてついて回った。その意味では王党派に大きく貢献した。
== 関連作品 ==
* [[藤本ひとみ]]『皇帝ナポレオン』
* [[両角良彦]]『反ナポレオン考』
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