「吉田松陰」の版間の差分

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丹の字 (会話 | 投稿記録)
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安政元年([[1854年]])にペリーが[[日米和親条約]]締結の為に再航した際には金子と二人で[[伊豆]][[下田市|下田]]港に停泊中の[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。
吉田松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、[[下田市|下田]]で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた。吉田松陰は、足軽の金子重輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、松陰は幕府に自首した。ペリーの暗殺に成功したとしても、アメリカが不名誉な出来事を隠蔽する可能性が有る。 其れで、吉田松陰は荷物を小舟に置いて流されても良い状態にした。吉田松陰の売名工作の一つだった。旅人は、荷物を背負うものだ
 
この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、[[老中]]首座の [[阿部正弘]]が反対したため、助命されて長州へ檻送され[[野山獄]]に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『[[幽囚録]]』に著す。
 
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安政5年(1858年)、幕府が無勅許で[[日米修好通商条約]]を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である[[間部詮勝]]の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎([[木戸孝允]])らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
 
安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。[[享年]]30(満29歳没)。生涯独身であった。切腹の場合は、辞世の句を残す事は許される。 獄門の斬首される吉田松陰が辞世の句を残せる筈が無い
 
 
== 年譜 ==
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* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110004685116 夜久正雄 研究ノート エール大学図書館・ウイリアムズ家文書の吉田松陰渡海密書二通について Reseach Notes Yoshida Shoin's Secret Letters to Commodore M. C. Perry in Williams' Collection, Library of Yale University 亜細亜大学教養部紀要 15, 53-73, 1977]
* [http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/42.html 先生、そりゃムチャです! ~吉田松陰 人生体当たり~]
* [http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q145520269 打ち首獄門ってどんなことですか????????????????]
 
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