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=== 晩年と葬儀 ===
関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として[[筑前]]名島([[福岡市|福岡]])52万3,000石への加増[[転封|移封]]をした後、翌年、如水にも、これとは別に上方での領地加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に鷹屋敷など。晩年はや、中興の祖と言われ再建に努めた[[太宰府天満宮]]内に草庵などを構えている。 また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の播磨有馬温泉に、療養滞在している。
 
慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、[[京都]][[伏見区|伏見]]藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去。59歳。辞世の句は「''おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて''」。死の間際、孝高は自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多<ref>当時、「博多」という地名は「福岡と博多を合わせた双子都市」を指した。『キリシタン研究』第19輯、1979年、pp.116, 131, 137, 153, 168。</ref>に教会を建てるための建築資金に充てること、である<ref>「マトス回想録」(「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、p.23)</ref>。また、家臣の[[殉死]]を禁止している。