「霊太后」の版間の差分

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安定郡臨涇県([[甘粛省]][[鎮原県]])の人。宮中に入り、充華から貴嬪に進んだ。聡明で才知深く、仏教を篤信した。当時の北魏の後宮では、皇子が立太子されるとその生母は死を賜うという習慣があった。そのため、妃嬪や宮人はみな皇女を産むことを祈願していた。そんな中で、当時の胡貴嬪は自ら祈願して皇子を産んだ。それが元詡、後の孝明帝である。その後、皇太子の生母に死を賜るという風習は宣武帝によって廃止されたが、それによって皇太子の母が実権を握り、権勢を振るう弊害が生じることとなった。
 
孝明帝が即位すると、胡充華が皇太妃と尊称されるようになり、その後また皇太后に昇りつめ、[[垂簾聴政|臨朝聴政]]([[摂政]])するに及んだ。その執政には節度が見られず、その紊乱を理由に一時的に北宮に閉居させられたほどであった。しかし[[525年]]、[[宦官]]が実権を掌握し、臣下に政権争いが勃発すると、執政に返り咲いた。
 
胡国珍が没すると、亡父のために[[洛陽]]の[[永寧寺]]中に九層の大塔を建立した。その風は北魏の人士に及び、城内に仏寺が乱立する事態を招いた。
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[[孝昌]]4年([[528年]])、孝明帝が突然崩御した(一説によれば、帝が[[爾朱栄]]を頼ろうとしたため、霊太后が毒殺したとされる)。孝明帝には嗣子がなく、胡太后は帝の一人娘を男子と偽り、無理やり帝位に就けた。当然のことながら、事後にそのことが発覚し、改めて孝明帝の従甥に当たる[[元釗]](幼主)を帝位に就けた。
 
このような目まぐるしい廃立は天下を震撼させるに余りあり、将軍の[[爾朱栄]]はその欺瞞を疑い、挙兵に及んだ。そして、わずか15日で京師の[[洛陽]]を陥落させ、幼主と胡太后を捕らえた。爾朱栄は幼主と胡太后を連行して[[黄河]]に送り、河中に沈めた([[河陰の変]])。代わって、新たに長楽王の元子攸([[孝荘帝]])が皇帝に擁立された。
 
胡太后はその死後に追諡されて、霊太后と呼ばれた。