「阿部正太郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎top: 画像追加
編集の要約なし
5行目:
12歳で[[横浜市]]に出て印刷工見習となったが、16歳となった[[1929年]][[4月1日]]に[[目黒競馬場]]所属の[[田中和一郎]]調教師に入門。4年間の修業を経て[[1933年]]に騎手免許を取得した。その年の[[6月4日]]の春季[[新潟競馬場|新潟競馬]]初日第1競走でイワタカに騎乗し、初騎乗初勝利を達成した。
 
[[1939年]]には、[[東京優駿|東京優駿競走]]に[[クモハタ]]で出走、8番人気ながら勝利して、配当金は払い戻し上限の200円を付けた。その後も、[[1941年]]の中山四歳牝馬特別(のちの[[桜花賞]])を[[ブランドソール]]、[[1943年]]の[[天皇賞|帝室御賞典]](春)を[[グランドライト]]で勝つなどして、一流騎手の座を獲得した。競馬開催中止期間中も、能力検定競走となった競馬で騎乗を続けている。
 
戦後も田中厩舎で[[主戦騎手]]として活躍。同厩舎には[[菊池寛]]や[[吉川英治]]、[[永田雅一]]などの有力馬主が数多く馬を預けていた事もあって、彼等の持ち馬に騎乗する事が多かった。[[1951年]]のクラシック戦線では、厩舎の一番馬だった[[トキノミノル]]には一度も騎乗する事は無かったが、[[キヨフジ]]で[[優駿牝馬]]を制している。
 
[[1956年]]の東京優駿競走で、吉川英治の持ち馬であったエンメイに騎乗したが、発走直後に他馬に挟まれる形で[[落馬]]、重傷を負った。怪我の程度は重く、騎手への復帰は困難と診断された事から、阿部はそのまま騎手を引退して[[調教師]]へ転進した<ref>当日、競馬を観戦していた時の[[農林水産大臣|農林大臣]]・[[河野一郎]]阿部が再起不能という話を聞き、競馬会の上層部に対してすぐに調教師の免許を与える様に進言したという。</ref><ref>吉川は、落馬事故を目の当たりにして責任を感じ、持ち馬を全て処分の上、馬主から引退した。</ref>。
 
[[1957年]]に厩舎を開業。当初は僅か所属3頭での出発であったが、すぐに所属馬は増加し、それに伴って調教師成績を向上していった。また、一旦騎手への道を諦めた[[加賀武見]]に再び騎手になる事を勧め、[[1960年]]に自厩舎所属騎手としてデビューさせた。加賀は後に阿部の長女と結婚している。
 
[[1977年]]には、長男で、厩舎の調教助手を務めていた[[阿部新生|新生]]が調教師免許を取得、[[1978年]]3月に独立して厩舎を開業したが、それと入れ替わる様に同年[[8月10日]]に死去した。{{没65齢|1913|3|19|1978|8|10}}
 
== 通算成績(騎手時代・日本競馬会時代の成績を含む) ==
19行目:
!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!!連対率
|-
|style="text-align:right"|431||style="text-align:right"|377||style="text-align:right"|330||style="text-align:right"|1,231||style="text-align:right"|2,360||style="text-align:right"|.183||style="text-align:right"|.342
|style="text-align:right"|431
|style="text-align:right"|377
|style="text-align:right"|330
|style="text-align:right"|1,231
|style="text-align:right"|2,360
|style="text-align:right"|.183
|style="text-align:right"|.342
|}
=== 重賞勝利 ===
*[[クモハタ]]([[東京優駿|東京優駿競走]](1939年))
*[[ブランドソール]]([[桜花賞|中山四歳牝馬特別]](1941年))
*シーラス([[目黒記念]](秋)(1941年))
*[[グランドライト]]([[天皇賞|帝室御賞典]](春)(1943年))
*[[キヨフジ]]([[優駿牝馬]](1951年))
*[[チエリオ]]([[スプリングステークス]]、[[ラジオNIKKEI賞|中山4歳ステークス]]、[[クイーンステークス]]、[[府中牝馬ステークス|東京牝馬特別]](1953年)、[[中山記念]](1954年))
40 ⟶ 34行目:
!1着!!2着!!3着!!4着以下!!出走回数!!勝率!!連対率
|-
|style="text-align:right"|589||style="text-align:right"|486||style="text-align:right"|450||style="text-align:right"|2,518||style="text-align:right"|4,043||style="text-align:right"|.146||style="text-align:right"|.266
|style="text-align:right"|589
|style="text-align:right"|486
|style="text-align:right"|450
|style="text-align:right"|2,518
|style="text-align:right"|4,043
|style="text-align:right"|.146
|style="text-align:right"|.266
|}
=== 代表管理馬 ===
*カネチカラ([[日刊スポーツ賞中山金杯|金杯]](東)、[[ダイヤモンドステークス]](1960年))
*クニハヤ([[中山大障害]](春)(1961年))
*アサリュウ([[目黒記念]](春)(1963年))
*メジロマンゲツ([[京成杯]] (1965年))
*パラデイン([[愛知杯]] (1966年))
*グローブターフ([[愛知杯]] (1969年))
*ハセタカラ(中山大障害(春)(1970(1970年))
*[[マスミノル]]([[東京新聞杯]](1970年))
*[[ベルワイド]]([[セントライト記念]](1971年)、[[天皇賞]](春)(1972年)、[[目黒記念]](秋)(1973年))
*ダッシュリュー([[福島記念]](1971年))
*マスヒロ(中山大障害(秋)(1972年))
*クリユタカ(中山大障害(秋)(1973年))
*トウショウロック([[ステイヤーズステークス]](1975年)、[[ダイヤモンドステークス]](1977年))
*ソーウンムサシ([[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]](1976年))
 
== 主な厩舎所属者 ==
76 ⟶ 64行目:
 
== エピソード ==
阿部の子供の名付け親は、当時田中厩舎に出入りしていた作家であった。長女(加賀の妻)と長男(阿部新生調教師)は菊池が名付け親で、次男は吉川英治が命名したと言う。
 
== 脚注 ==