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=== キプロスにて ===
[[ファイル:Silver denarius of Cato 47 46 BCE.jpg|200px|thumb|カトを描いた硬貨]]
[[紀元前58年]]からカエサルが総督としてガリアへ赴任し、[[ガリア戦争]]で[[ガリア人]]との戦争を始めた中、三頭政治側で護民官に当選した[[プブリウス・クロディウス・プルケル]]が頭角を現した。クロディウスはカトを疎ましく思ったことから、カトを[[キュプルス属州 (ローマ帝国の属州)|キプロス]]併合のために[[プロプラエトル]](前法務官)格の総督として派遣することを提案し可決された。カトにとって不本意であったものの、決議に従ってキプロスへ向かうことを受け入れた。カトのキプロス派遣によって重石の外れた格好のクロディウスは、その後キケロのローマ追放へ邁進することとなる。
 
キプロスに赴任したカトは無事にキプロスのローマへの併合を完了させた。キプロスは豊かな地方であったが、カトはクァエストルの職にあった時と同様に不正を行わなかったことから、[[属州総督]]後に当時のローマで頻発していた汚職による告発とは無縁であった。[[キュプルス属州 (ローマ帝国の属州)|キプロス属州]]化によって、ローマは新たに銀貨で7,000タラントを得ることとなった。元老院はカトに対して、キプロスでの功績により凱旋式を行うように伝えたものの、法に反するとしてその申し出を拒否した。
 
なお、ローマへ帰還したキケロは「[[パトリキ]]出身のクロディウスが([[プレブス]]出身者しか就任資格の無いはずの)護民官に選出され、その職で行った法的措置は全て無効である」と発言・決議に持ち込んだのに対し、カトは「自分のキプロスでの功績が全て取り消されるのは横暴である」とキケロを発言したため、これ以降、カトはキケロとの仲が冷却化したと伝わっている<ref>プルタルコス「英雄伝」キケロ34</ref>。