「山田方谷」の版間の差分

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方谷は儒教(とこれを奉ずる[[幕藩体制]])の弱点を、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも軽視してしまい結果的には正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう点にあることに気付いていた。反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
 
方谷の思想は後に、弟子の[[三島中洲]]の「義利合一論」へと発展して、[[渋沢栄一]]らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛<small>(しせいそくだつ)</small>という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。
:例えば、他人を小人呼ばわりした[[三島中州]]に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという<ref>『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面</ref>。
 
 
[[安岡正篤]]は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している<ref>『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面</ref>。
 
=== 幕末維新期 ===
その後、方谷は、岡山の人々の依頼で、[[寛文]]10年([[1670年]])に池田光政が設立し、明治3年([[1870年]])まで続いた[[閑谷学校]](日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年([[1874年]])に再興した。明治新政府も方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めた。しかし、領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷に、再仕官をする考えはなかった。そして、明治10年([[1877年]])に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。
 
=== その他エピソード ===
== 文献 ==
方谷の思想は後に、弟子の[[三島中洲]]の「義利合一論」へと発展して、[[渋沢栄一]]らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛<small>(しせいそくだつ)</small>という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。
平成8年(1996年)に義孫である[[山田済斎|山田準]]編『山田方谷全集』全3巻が[[明徳出版社]]より復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』([[三五館]])が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。
:例えば、他人を小人呼ばわりした[[三島中州]]に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという<ref>『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面</ref>。
 
[[安岡正篤]]は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している<ref>『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面</ref>。
 
嘉永5年([[1852年]])に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。方谷は忙しい最中ではあったが、それを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせ、自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で[[女子教育]]の普及に努める事となる[[福西志計子]]であった。<ref>『福西志計子と順正女学校』(倉田和四生・著 / 吉備人出版)p.48</ref>
 
== 年表 ==
*[[三浦仏厳]]
*[[岡本天岳]]
*[[福西志計子]]
 
== 文献 ==
平成8年(1996年)に義孫である[[山田済斎|山田準]]編『山田方谷全集』全3巻が[[明徳出版社]]より復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』([[三五館]])が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。
 
== 脚注 ==
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