「福西志計子」の版間の差分

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幼少期において隣家の儒学者[[山田方谷]]に学び、17歳にて婿養子を迎えて結婚。<ref name="kanko"></ref>のち29歳にて岡山裁縫伝習所において学問を修め、高梁小学校附属裁縫所の教師となる。教師としての活動の中で志計子は共に高梁出身として伝習所にて学ぶ友人であった木村静(きむら しず)と共に[[高梁基督教会堂]]にて[[キリスト教]]に触れると共に、[[金森通倫]]や[[新島襄]]との交流を経て、女子高等教育の必要性を痛感する。<ref name="kanko"></ref>
 
しかし高梁へのキリスト教伝来と同時期に吹き荒れた反キリスト教の世論のために公職であった高梁小学校附属裁縫所教師の職を木村と共に追われる。同様に職を追われた者たちが高梁会への奉仕活動へと勤しむ中、志計子は教育者として立場に拠らない女子高等教育への志を捨てることなく私設の縫製所を開学。のち同縫製所に文学科を併設させ女学校として改組させ'''順正女学校'''とした。<ref name="t-jiten"></ref>
 
順正女学校より運営を引き継ぎ存続している'''[[岡山県立高梁高等学校]]家政科'''の学祖。そして'''学校法人 順正学園'''の運営する各校(主には[[吉備国際大学]]・[[吉備国際大学短期大学部]]・順正高等看護専門学校)において、その志を同地において示した'''学祖に準ずる者'''として推戴される人物である。<ref>ただし、これら各校は歴史の流れの中での県営移管(高梁高等学校)や経営上の都合(順正学園)などがあいまって、福西が当初に開設したようなキリスト教系校([[ミッション系]]学校)の気風を受け継ぐことは無かった。</ref>