「福西志計子」の版間の差分

編集の要約なし
'''福西志計子'''(ふくにし しげこ、[[1848年]][[1月18日]]([[弘化]]4年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]<ref name="kanko">[http://yamadahoukoku.com/Christ/sigeko.htm 備中高梁観光案内所ウェブサイト「山田方谷マニアックス」]より</ref>) - [[1898年]]([[明治]]31年)[[8月21日]]<ref>[http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/hukunisikeiko.html 日本キリスト教女性史・福西志計子]より</ref>)<ref name="kotobank">[http://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E8%A5%BF%E5%BF%97%E8%A8%88%E5%AD%90 コトバンク-福西志計子]</ref>は、[[日本]]の[[教育者]]、[[キリスト教]]信徒。幼名(本名)は'''福西繁'''(ふくにし しげ)<ref name="kotobank"></ref><ref name="t-jiten">[http://takahashi.jyoukamachi.com/name-hu.html 高梁歴史人物辞典「ふ」項] </ref>であり、信仰者・教育者として職に携わるにあたっては名を読み替えて'''志計'''(しげ)ないしは'''志計子'''(しげこ)と名乗る。<ref name="kotobank"></ref><ref name="t-jiten"></ref><ref group="注">読み替えた「志計子」の名前の各文字には、すべて[[十字架]]を意識したような「十」字形の部首や字形が用いられており、これだけでも福西の信仰の篤さが伺える</ref>[[岡山県]][[高梁市]]において'''順正女学校'''を設立した事により、同地において[[女子教育|女子]][[中等教育]]の実践を通し[[高等教育]]普及の礎を築いた人物。
 
== 概説 ==
しかし高梁へのキリスト教伝来と同時期に吹き荒れた反キリスト教の世論のために公職であった高梁小学校附属裁縫所教師の職を木村と共に追われる。同様に職を追われた者たちが高梁教会への奉仕活動へと勤しむ中、志計子は教育者として立場に拠らない女子高等教育への志を捨てることなく私設の縫製所を開学。のち同縫製所に文学科を併設し女学校として改組させ'''順正女学校'''とした。<ref name="t-jiten"></ref>
 
順正女学校より運営を引き継ぎ存続している'''[[岡山県立高梁高等学校]]家政科'''の学祖。そして'''学校法人 順正学園'''の運営する各校(主には[[吉備国際大学]]・[[吉備国際大学短期大学部]]・順正高等看護専門学校)において、その志を同地において示した'''学祖に準ずる者'''として推戴される人物である。<ref group="注" name="keiretu">ただし、これら各校は歴史の流れの中での県営移管(高梁高等学校)や経営上の都合(順正学園)などがあいまって、福西が当初に開設したような[[キリスト教主義学校]]の気風を受け継ぐことは無かった。が、そもそも福西は自身の信仰は篤くとも、これをもって生徒たちを積極的に教化する姿勢は持たなかったとされる。これは女学院設立当初における迫害の中、地域の理解を得て女性教育の場としての女学校を守るために教育と教化の分離が必要不可欠であったためで、とにかく女学校における福西の一番の目的は単純な教化ではなく博愛主義(ここで言う博愛主義はキリスト教的博愛主義もさることながら、福西が山田方谷より当然として教えられていたであろう至誠惻怛の思想をも抱き合わせとした、複合的な博愛主義的価値観であろうと考えられている)に基づく女子教育の普及(自己判断の元、自らの価値観と知性をもって、それを取捨選択しうる自立した女子の育成)であったと考えられている。(順正女学校同窓会誌『園の音信・第2号』より。倉田,2006年、p110)</ref>
 
日本の明治期において女子高等教育の必要性を説き「'''女性に自由な教育を'''」<ref>[http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/38/fukunisisigeko.html 高梁市ウェブサイト「福西志計子」]より</ref>をその活動の信念・旗印とし、高梁市を中心として教育の普及に努め岡山県の教育史に名を残した[[女教師]]である。
匿名利用者