「シチリア晩祷戦争」の版間の差分

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ペドロ3世は自身の優位を強調し、[[1283年]]2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルルは、ペドロのもとに手紙を送って一騎打ちによる紛争の解決を求めた。ペドロはこれを承諾し、シャルルはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘は[[ボルドー]]にて[[1月1日]]に行われることなった。双方共に100人の騎士が同行し、[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している<ref>Chaytor, p 104.</ref>。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチーナを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロには護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。
 
ペドロとシャルルが決闘による決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督である{{仮リンク|ルッジェーロ・ディ・ラウリア|it|Ruggiero di Lauria}}はペドロの代理としてイタリアで戦闘を継続していた。ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル1世はボルドーを去って{{仮リンク|プロヴァンス伯領<!-- リダイレクト先の「[[プロヴァンス伯]]」は、[[:fr:Liste des souverains de Provence]] とリンク -->|fr|Comté de Provence|FIXME=1}}に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ[[ナポリ・アンジュー朝|王朝]]の支柱となる[[ナポリ]]へ派遣した。ルッジェーロは[[マルタ]]を占領し、同島近くの{{仮リンク|マルタの戦い|ca|Combat de Malta}}で{{仮リンク|アンジュー伯<!-- リダイレクト先の「[[アンジューの領主一覧]]」は、[[:fr:Liste des comtes et ducs d'Anjou]] とリンク -->|fr|Comté d'Anjou|FIXME=1}}={{仮リンク|プロヴァンス伯<!-- [[:fr:Liste des souverains de Provence]] とリンク -->|fr|Comté de Provence|FIXME=1}}艦隊を撃破した。それからナポリ港外においてシャルル1世の息子で王位継承者である{{仮リンク|サレルノ公|it|Principi di Salerno}}[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル(2世)]]と引き分けている。ルッジェーロは完全に遠洋に針路をとって、{{仮リンク|ナポリ湾の海戦|ca|Batalla del golf de Nàpols}}でアンジュー海軍を完膚までに破壊した。ルッジェーロはメッシーナにおいてサレルノ公を捕虜とし、42の艦船を拿捕している。シャルル1世はこの時イタリアに到着していたが、それからすぐ後の[[1285年]]に死去した。シャルル1世の後継者であるサレルノ公は虜囚の身であり、他方ペドロ3世も|{{仮リンク|アラゴン十字軍|ca|Croada contra la Corona d'Aragó}}という新たな脅威に対処しなければならなくなったことから、イタリアにおける争いは両陣営の主導者が不在のまま継続することとなった<ref name="Chaytor, p 105">Chaytor, p. 105.</ref>。
 
==アラゴン十字軍==