「王玄謨」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''王玄謨'''(おう げんぼ、[[388年]] - [[468年]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[字]]は彦徳。[[本貫]]は[[太原郡]][[祁県]](現・[[山西省]][[晋中市]][[太谷県]])
 
== 経歴 ==
後漢の司徒[[王允]]の兄の王宏<ref>字は長文。『[[後漢書]]』郭符許列伝・[[郭泰]]伝注が引く謝承の『後漢書』、盧弼の三国志集解後漢書王允伝による。</ref>。子とその子[[王凌]]の六代(五代)の孫に当たる。王秀の子として生まれた。幼くして父を失い、族父の王蕤に養育されて、「この子は気概高亮にして、太尉の彦雲(王凌)の風あり」と評された<ref>『[[宋書]]』王玄謨伝</ref>。
 
[[劉裕]]が[[徐州]]にいたとき、玄謨は召し出されて従事史となった。[[424年]]([[景平]]2年)、[[謝晦]]が[[荊州]][[刺史]]となると、玄謨はその下で南蛮行参軍・[[武寧郡]][[太守]]となった。[[426年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]3年)、謝晦が敗死したが、玄謨は主要な部将ではなかったため罪に問われず、原職にもどされた。元嘉年間、長沙王[[劉義欣]]の下で鎮軍中兵将軍となり、[[汝陰郡]]太守を兼ねた。玄謨は[[北魏]]に対する[[北伐]]の策をたびたび上奏したが、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]に聞き入れられなかった。[[447年]](元嘉24年)、興安侯劉義賓の下で輔国司馬・[[彭城郡]]太守に任じられた。[[448年]](元嘉25年)、劉義賓が死去すると、玄謨は彭城が水陸の要地であるとして皇子の赴任を求め、文帝は武陵王[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]を徐州刺史として派遣してきた。