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大番は当初は6組、その後の増強と幕府制度の整備にともない、[[本丸]][[老中]]支配として12組となる。[[徳川秀忠]]が[[征夷大将軍|将軍]]に就任し、書院番・小姓組(創設当初は花畑番)が新たに創設されると親衛隊側面はそちらに移行し、大番は幕府の直轄軍事力となってゆく。そのため、将軍・[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・世子の親衛隊ではない大番が[[西の丸]]に置かれる事はない。
 
1つの組は[[番頭]]1名、[[組頭]]4名、[[番士]]50名、[[与力]]10名、[[同心]]20名で構成される。番頭は[[役高]]5000石の[[伺候席|菊間席]]で、しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭は役高600石の躑躅間席、番士は持ち高勤め([[足高制]]による補填がない)であるがだいたい200石高の旗本が就任した。役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は400人強となり、2万石程度の大名の軍役に匹敵した(『岩淵夜話』によると5万石に比例するとしている)。
 
職務は、戦時においては旗本部隊の一番先手として各種足軽組等を付属した上で[[備]]の[[騎馬隊]]として働き、平時には江戸城(特に二の丸<ref>[[和田英松]]、<small>[[所功]]校訂</small>『官職要解』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061586215、346p</ref>)下および要地の警護を担当する。大番の警護する要地には[[二条城]]および[[大坂城]]があり、それぞれに2組が1年交代で在番する。江戸時代初期にはこのほかに[[伏見城]]と[[駿府城]]の警護に当たっていたが、伏見在番は伏見廃城により、駿府在番は書院番が務めることになり、それぞれ廃止された。
 
大番は歴史が古いものの、「両番」と称せられる小姓組、書院番に比べ家格は一段低いとされ、番士たちの出世の途は限られていた。
 
 
== 諸藩の大番、大組 ==