「小幡信真」の版間の差分

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一説では、父の憲重は大永年間に死去し、父の憲重の事績とされる事柄は信貞のことだとも言われている。また、[[赤備え]]の部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、[[信長公記]]中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。[[武田二十四将|武田氏24将]]の一人として数えられる。長篠の戦いで戦死したともいわれることがあるが、戦死したのは信貞の弟とされている。
 
== 逸話 ==
信玄が長野氏を滅ぼした後、信貞に「長野家の者であるお前の本妻を離別し、武田の譜代の家と新たに縁付いてもらいたい。」と言い出した。これに対して信貞は
「もしこれが、長野家の没落以前の事なら、お受けしていたでしょう。私は主君、上杉憲政を疎み、その上、越後の輝虎には憎まれ、彼らに一族内の紛争を利用され討たれる寸前となった所を、武田家に救っていただきました。この信玄公の深い御恩はどれほどの事をしてもお返しは出来ません。ですが、今は我妻は、父の実家も既に滅び、もはや寄る辺も無い身柄です。そうである以上、たとえ御成敗を仰せ付けられようとも、離別する事はできません!」
そう、言い切った。
信玄は信貞の言葉に深く感じ入り、「お前のその見事な意地に、次の戦、先手を申し付けるぞ。」と言い渡し、さらに甥の[[武田信豊]]を信貞の婿にしたという。
 
== 脚注 ==