「スヴァンテ・アレニウス」の版間の差分

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ウプサラ大学ではあまり注目されなかったが、アレニウスは同じ論文を[[物理化学]]という新しい分野に関わっている[[ルドルフ・クラウジウス]]、[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]、[[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]といったヨーロッパ中の科学者に送りつけた。彼らはその論文に注目し、オストヴァルトなどはウプサラまでわざわざ赴き、アレニウスを自分の研究チームに勧誘している。しかしアレニウスはその申し出を断わってスウェーデンに残り(そのころ父が病床にあり、1885年に亡くなった)、ウプサラ大学に勤務し始めた。
 
[[イオン]]に関する理論を発展させていく中で、1884年に[[酸]]と[[塩基]]の定義を提唱した。彼は、水[[溶液]]において[[水素]][[イオン]]を発生するのが酸で、[[水酸化物イオン]]を発生させるのが塩基だとした。(これは「アレニウスの定義」と呼ばれる。)
 
=== 壮年期 ===