「福西志計子」の版間の差分

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日本の明治期において女子高等教育の必要性を説き「'''女性に自由な教育を'''」<ref>[http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/38/fukunisisigeko.html 高梁市ウェブサイト「福西志計子」]より</ref>をその活動の信念・旗印とし、高梁市を中心として教育の普及に努め岡山県の教育史に名を残した[[女教師]]である。
 
== 人物 ==
大まかな評伝としては「男勝りで実行力に富み、自己にも他者にも厳しく接する人物」とされている。<ref>倉田,2006年、p198</ref>
 
福西は幼い頃の父親との死別により、母子家庭の娘として生きていかねばならなかった。その後、志計子が婿をとるまでの間、当主名代として福西家を廃嫡させずに存続させたのは、他ならぬ彼女の母親であり、その母親の「父なし娘と侮られぬよう、きちんとした学問を身につけて欲しい」との願いにより志計子は山田方谷の元へと藩の男子や他藩よりの遊学生に交ざって学問を修める事になった。また、結婚後も幕末から明治初期にかけての混乱を切り抜け、備中松山藩の士族として貧窮に甘んじる<ref group="注">当時の備中松山藩は幕府軍として戦い、志計子の夫であった助五郎も、藩主[[板倉勝静]]を助けるために[[鳥羽伏見の戦い]]と[[戊辰戦争]]に赴いている。(高梁歴史人物辞典より) 明治期において「賊軍の士族」であった松山藩士たちは、総じて様々な局面で、苦境に立たされることとなった。</ref>事にもなった。この体験は志計子に「'''たとえ女子と言えども、事あらば男子に匹敵する、あるいはそれを超える働きが求められる'''」という経験則と「'''女であるというだけで、男に劣るなどという事は決して無い'''」という意識を与えた。すなわち福西はキリスト教の「神の下の平等」に触れる以前より'''男女平等主義'''をその身に刻んでいたとされている。<ref name="p71">倉田,2006年、p71</ref>
 
男女平等主義者であった福西だが、しかして、その原因を単に男性側の意識や単なる社会構造の問題ととらず「'''女性側に学問を学ぶ機会が与えられないためである'''」と捉えた。これもまた自らが方谷門下として男性たちに互して学問に研鑽した過去にあるとされる。女性側の知性と意識が高まり理に敵う行動が出来れば、男性と同様の実績を積める、という事を前述の経験則によって知っていた福西は、それゆえにこそ女性地位向上・男女平等の理想への近道を社会改革や示威活動ではなく、女子教育(と職業女性の推進)にこそ求めたのだとされている。<ref name="p71"></ref>
 
こうした体験を経て方谷の元で理知と実行力を学んだ福西であったが、その元に常に理(または利)詰めで動いていたのかといえば実はそうではなく、その行動には常に博愛精神がついて回っていたという。幼きにおいては方谷より賜った至誠惻怛に基づく、長じてはキリスト教的博愛主義に基づいた、双方に共通する「人間愛」の精神<ref group="注">福西の生涯を研究した倉田和四生は、これを「福祉の心」と称している。(倉田,2006年、p65)</ref>を、福西は常に尊重し続けたと言われており、順正女学校の理念もまた、それに基づく「温'''順'''貞'''正'''」であったという。<ref>倉田,2006年、p63,p65,p220など</ref>
 
=== 順正の「父」として ===
このように実行力に富み厳格で男勝りにして、されど母に勝る慈愛を持っていた福西は、本来は女性にもかかわらず教え子より「'''順正のお父さま'''」と恐れられながら慕われた。<ref name="p165">倉田,2006年、p165など</ref>
 
実際、福西は女学院において風紀や躾に厳しく、特に社会に出て有用な人材になれるようにと学問と技術を教授する事に情熱を注いだ。それはすなわち生徒への愛情ゆえの厳しさであったわけだが、その様は、まさに「母」とするには苛烈で「父」と形容するに足るものであった。福西の指導に心を疲弊させた生徒のメンタルケアを担当したのは、彼女の盟友であった「順正のお母さま」木村静であり、初期順正女学校の慈愛精神は、この二人の「愛の両輪」こそがそれを支えていたのである。<ref name="p165"></ref>
 
== 略歴 ==