「福西志計子」の版間の差分

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このように実行力に富み厳格で男勝りにして、されど母に勝る慈愛を持っていた福西は、本来は女性にもかかわらず教え子より「'''順正のお父さま'''」と恐れられながら慕われた。<ref name="p165">倉田,2006年、p165など</ref>
 
実際、福西は女学において風紀や躾に厳しく、特に社会に出て有用な人材になれるようにと学問と技術を教授する事に情熱を注いだ。それはすなわち生徒への愛情ゆえの厳しさであったわけだが、その様は、まさに「母」とするには苛烈で「父」と形容するに足るものであった。福西の指導に心を疲弊させた生徒のメンタルケアを担当したのは、彼女の盟友であった「順正のお母さま」木村静であり、初期順正女学校の慈愛精神は、この二人の「愛の両輪」こそがそれを支えていたのである。<ref name="p165"></ref>
 
=== 高等教育への理想と結末 ===
福西は[[1883年]]にメアリー・リヨン([[w:en:Mary Lyon|英語版記事]] - [[マウント・ホリヨーク大学]]学祖。[[アメリカ合衆国]]における[[女子教育]]の先駆者)の伝記に触れて強く影響を受けたとされている。<ref name="p107">倉田,2006年、p107</ref>当時、縫裁所を運営していた福西は、リヨンの大学創設に大きく勇気づけられ「''あの人は女子でありながら大学を創設したのであるから、私にもそれができないはずはない'' 」と志を高めた。<ref name="p107"></ref>これを以降、福西の女子教育の理想は中等教育の質の上昇と高等教育の設置へと向けられる。のち福西は縫裁所を「縫裁科」とした上で文学科を新設し、順正女学校へと改組させた。さらに女学校は福西死後の明治45年に順正高等女学校を名乗る事になり、大正期においては他の高等教育機関に対し在校生のうち30%の進学率を叩き出す学校となっていった。<ref>倉田,2006年、p138</ref>
 
されど、結論として順正女学校そのものの高等教育課程設置は、福西が志半ばにして病に伏した事(1898年)と後の県営移管(1921年)において、中途半端な形となった。以降は教育界そのものが[[国体|国体思想]]へ一直線となる中で福西が理想とした女子高等教育の敷設の道は絶たれ、1943年には校名から順正の名も消されていく。<ref>倉田,2006年、p293</ref><ref group="注">校名から「順正」の名が消された理由については記録は残っていない。ただ倉田は国体の中で公営の学校が、私学時代(しかもキリスト教主義を持っていた時代)を尊重するような名を掲げる事は国にとって好ましからざる事とされたのではないか、という推測を研究所の中で語っている。(倉田,2006年、p293)</ref>
 
結果として福西が教育の理想を掲げた頼久寺町・伊賀町に再び「順正」の名が掲げられるのは、国体主義崩壊後となる[[戦後]]の事である。しかも[[1967年]]の'''[[吉備国際大学短期大学部|順正短期大学]]'''設立まで待つ事となった。<ref>倉田,2006年、p300</ref>
 
そのきっかけとなったのが岡山県当局の主導で行われた[[1966年]]の高梁高等学校伊賀町校舎の廃止である。これに反発したのが地元・伊賀町および頼久寺町、さらには福西の教え子たちともいえる順正女学校・順正高等女学校・高梁高等女学校・高梁高等学校家政科と連綿と歴史を紡いで高梁の地に根を下ろしてきた「順正の卒業生」たちであった。彼女らは自らが慣れ親しんだ伊賀町から学び舎の灯が消える事を嘆き、その悲痛を高梁市に申し入れたのである。市は伊賀町校舎の跡地活用として様々な模索をしてきたが、最終的には彼女らの陳情を受諾し、教育機関を誘致することを決定。当時、岡山県・[[広島県]]の各地で教育機関を設置させ、運営実績のあった[[加計勉]]に誘致を打診する。加計は「順正の卒業生」たちの願いと、それを汲まんとする市当局の熱意に応え、高梁市と共同出資の形で「学校法人 高梁学園」<ref group=~注">のちの順正学園</ref>を設立。順正女学校跡地に共学校である「順正短期大学」を新設させた。新設校に「順正」の名を遺したのも、福西の業績を忘れぬためにと卒業生たちが加計に対し陳情した結果である。<ref>倉田,2006年、p299</ref>
 
もちろん現在、伊賀町に設置された高等教育機関<ref group="注">[[吉備国際大学]]および[[吉備国際大学短期大学部]]。順正短期大学を発端として発展してきた順正学園の教育機関群</ref>は福西の設立したものではなく、キリスト教主義学校の精神も持ってはおらず<ref group="注">そもそも国体主義時代直前に他ならぬ高梁高等女学校によってその理想は破棄されている</ref>しかも共学校<ref group="注">これは経営上の問題もあるが、福西自身が上記した通り男女平等主義者であった解釈に基づいて'''男女ともに差別なき同じ教育を提供する'''という趣旨による</ref>である。されど高梁市伊賀町という土地に再び「順正」の名を冠する学校が創られたのは、紛れも無く福西が高梁の地に撒いた女子中等教育と高等教育への意志、そして、これらを受け継いだ教え子たちの思いがあっての事であるとされている。<ref>倉田,2006年、p301</ref>ゆえに、順正(旧・高梁)学園は福西を「学祖に準ずる者」として推戴し、その業績を史跡「順正寮」(順正女学校の校舎跡)として遺し伝えている。<ref>[http://junsei.ac.jp/edu/guide/origin.html 順正の由来 - 学校法人 順正学園]</ref>
 
== 略歴 ==
* [[1881年]] 高梁向町に女子教育の場として私設の縫製所を設立する。
* [[1882年]] [[高梁基督教会堂]]の設立に伴い、正式に洗礼を受けて、キリスト教徒となる。
* [[1883年]] メアリー・リヨン([[w:en:Mary Lyon|英語版記事]] - [[マウント・ホリヨーク大学]]学祖。[[アメリカ合衆国]]における[[女子教育]]の先駆者)の伝記に深く感銘を受け、女子高等教育への志をより強くする。
* [[1885年]] 縫製所に文学科を設置させ、私設縫製所を'''順正女学校'''として改組。初代校長として柴原宗助を迎え、志計子は一教師兼経営者として運営に関わる。
* [[1896年]] 校舎を新設し、向町の借地から頼久寺町(現・[[吉備国際大学短期大学部#史跡|順正寮跡]])に移転。<ref group="注">志計子没後となる明治41年に伊賀町に新校舎が完成し校舎存続のままで順正女学校の本拠は同地に再移転する</ref>
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