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シベリア出兵等
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| 氏名 = 富岡 定俊
| 各国語表記 =
| 生年月日 = [[1897年]](明治30年)[[3月6日]]
| 没年月日 = [[1970{{死亡]](昭和45月日と没)[[齢|1897|3|6|1970|12|7日]]}}
| 画像 = Tomioka Sadatoshi.JPG
| 画像サイズ =
| 画像説明 = 1951年
| 渾名 =
| 生誕地 = {{JPN}}、[[広島県]][[東能美島|江田島]]
| 死没地 =
| 所属組織 = [[日本海軍]]{{IJNAVY}}
| 軍歴 =
| 最終階級 = [[海軍少将]]
| 除隊後 = [[史料調査会]]理事長<br/>光電気会長製作所会長<ref>『太平洋戦争と富岡定俊』434-436頁</ref>
| 除隊後 =
| 墓所 =
| 署名 =
}}
'''富岡 定俊'''(とみおか さだとし、[[1897年]](明治30年)[[3月8日]] - [[1970年]](昭和45年)[[12月7日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[華族]]。最終階級は[[海軍少将]]。[[男爵]]。
 
== 経歴 ==
[[広島県]]に父[[富岡定恭]][[海軍中将]]の長男として生れる。高千穂中学校を経る。1917年7月父の死去に伴い男爵を襲爵。[[1917年]]11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#45期|45期]]を卒業。父の死去で試験を受けず、卒業席次は20番であった。[[少尉]]時代に[[装甲巡洋艦]]「[[阿蘇 (装甲巡洋艦)|阿蘇]]」の[[陸戦隊]]小隊長として[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコラエフスク]]の警備にあたる<ref>『太平洋戦争と富岡定俊』34頁</ref>
 
[[駆逐艦]]「[[帆風 (駆逐艦)|帆風]]」航海長、[[給油艦]]「[[尻矢 (給油艦)|尻矢]]」航海長、[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]][[参謀]]などを経る。[[尉官]]時代は陽の当たらない配置が続き、海軍を辞めることまで考えたが、[[鈴木貫太郎]]の説諭により思い止まった。
1927年12月1日[[海軍大学校]](甲種27期)を首席で入学し、[[1929年]]11月27日首席で卒業<ref>『参謀 (上)』P62~62-63</ref>。
 
[[フランス]]駐在([[国際連盟]]海軍代表部)、「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」航海長、[[軍令部]]出仕兼[[参謀]]、第7戦隊参謀、[[海軍省]]人事局第1課局員、[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]]参謀を経る。
海大戦略教官着任。富岡は戦略物資の研究に励み、米の需要を満たすためには南部仏印が必要であるとの結論に至る<ref>『参謀 (上)』P6565頁</ref>など、「戦術」に偏りがちであった海軍軍人の中で、「戦争」研究に着目していた<ref>『海軍参謀』P217~217-228</ref>。
 
軍令部第1部第1課長。物資や船舶を担当する軍令部第四課長[[栗原悦蔵]]の会議出席を阻止<ref>『四人の軍令部総長』pp.94-95</ref>、石油貯蔵量の情報操作など[[海事国防政策委員会第一委員会]]の中でも[[石川信吾]]と並ぶ対米強硬派だった<ref>『四人の軍令部総長』pp.95-97</ref>。富岡は日米戦争を有限戦争であり、無限戦争に至ることなく講和が可能であるとの判断をしていたが、その見通しを誤ったことを後悔する。
 
1941年12月太平洋戦争開始。富岡は第一段作戦において[[山本五十六]]連合艦隊司令長官の希望するハワイ攻略については確保が不可能という判断から賛成できず、海上交通破壊戦を一層強化することによるイギリス屈服手段を重視していたという<ref>戦史叢書80大本営海軍部・聯合艦隊(2)昭和十七年六月まで308頁</ref>。第二段作戦計画ではハワイ攻略について、[[三和義勇]]連合艦隊参謀は富岡、[[神重徳]]軍令部主席参謀と1942年10月をめどと話すが、富岡はハワイ攻略には反対だったという<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦52-53頁</ref>。
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終戦が迫ると、軍令部次長[[大西瀧治郎]]中将は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてた。富岡は[[及川古志郎]]大将を説得する割当になった。出発前に富岡は、作戦課部員に「私は天皇陛下の御聖断に従うつもりである。もし、私と異なる意見のものは率直に言ってほしい」と話したが、ほとんど応答はなかった<ref>草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫</ref>。終戦時に自決した大西次長は遺書の中で富岡に「御補佐に対し深謝す」「総長閣下にお詫び申し上げられたし」と残した([http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E ウィキクォート:大西瀧治郎])。
 
終戦を受けて皇統を守ることを考えた軍令部第一部長の富岡は、[[皇統護持作戦]]を[[豊田副武]][[軍令部|軍令部総長]]と[[米内光政]][[海軍大臣]]から了承を取って、高松宮宣仁親王から同意を得て、[[大金益次郎]][[宮内省|宮内]][[次官]]と協議するように指示された。有力者[[平泉澄]]博士からも協力を取り付けた。大金は具体策は海軍に任せた。匿う場所は[[土肥一夫]]中佐から[[熊本県]][[五箇荘]]が提案された<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社102-103頁</ref>。1945年8月17日軍令部で富岡は、[[第七二一海軍航空隊|721航空隊]]司令[[岡村基春]]大佐と[[第343海軍航空隊|343航空隊]]司令[[源田実]]大佐に皇族を匿う皇統護持作戦を命令する。岡村大佐と源田大佐で別々に人員を選抜し拠点の構成を行うように指示した。万般にわたって[[横井俊之]]参謀長が面倒をみる、匿う皇族をだれにするかは直前で決める、皇女の可能性もある、期間は無期限のつもりの覚悟でと説明した<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社108頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ229頁</ref>。しかし天皇制存続が決まり、富岡も終戦から2年ほどして作戦の解消を伝えた<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社152頁</ref>。また、1945年8月18日富岡は[[豊橋海軍航空隊|701空]]司令[[榎尾義男]]大佐に地下組織の結成も命じた。榎尾は約3800人で橘殉皇隊を結成。天皇、国体に危険が迫ったとき決起してゲリラ戦に移ることを目的としたが、情勢の好転で自然消滅した<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社274-275頁</ref>。
 
1945年9月[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で行われた[[降伏文書]]調印式には随員として参加。
 
戦後、海軍省出仕(資料調査)、[[第二復員省]]大臣官房史実部長を歴任。[[料調査会]]理事長を勤めた。[[特許|特許権]]2、[[実用新案権]]5を取得した発明家でもあり、権利取得はしていないもののビニール傘も発案している<ref>『太平洋戦争と富岡定俊』354-356頁</ref>
 
== 著書 ==
* 『開戦と終戦』毎日新聞社、[[1968年]]
 
== 親族 ==
*祖父 富岡宗三郎([[松代藩]][[藩士]]、海防隊長)
*父 [[富岡定恭]]海軍中将
*叔父 [[富岡延治郎]]海軍機関少将
*長男 富岡定博(海兵75期)
*義兄弟 [[丸山寿美太郎]]海軍大佐
*義兄弟 [[津留雄三]]海軍大佐
 
== 脚注 ==
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== 文献 ==
* 史料調査会編纂『太平洋戦争と富岡定俊』軍事研究社、[[1971年]]
* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、[[1981年]]
* 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、[[2000年]]
* [[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]]、[[2005年]]
* [[児島襄]]『参謀 (上)』、[[文春文庫]]
* [[吉田俊雄]]『海軍参謀』、文春文庫
* 吉田俊雄『五人の海軍大臣』、文春文庫
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[[Category:大日本帝国海軍将官]]
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