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Thomo (会話 | 投稿記録)
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馬屋橋 (会話 | 投稿記録)
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::ご返答ありがとうございます。まず上杉定実の娘の件については疑問符マークを付けることには異議ございません。『山吉家譜』についてはおっしゃる通り、それをそのまま書いて妥当かと言われると疑問もありますが、そもそも女子(生母・正室等)に関しては系図によって全く記載がない場合が多いうえに男子と比較して検証が難しいため、他史料(及び世系・年代)と矛盾のないものについては疑問符を付けて使用し、矛盾が大きくなる場合については脚注表記としてもよろしいかと私は思います。やや蛇足気味になりますが、長尾房長の場合は最初に上田長尾の系統であるという通説があり、そのうえで為景兄弟説も出ているというケースと認識しています。上杉憲将の娘については、存在そのものが問題となっておりますので、やや異なったケースであるように思います。もし上杉憲将の娘として複数の系図で一女のみの記載があり、その嫁ぎ先について通説と異説がある場合は、長尾房長の例と同様になるかと考えます。また、上杉氏の系図は女子の記載が少なく、女子を嫁がせた先の家に婚姻の記録があるにも関わらず、上杉氏側の系図に記載がない(もしくは不確か)という事例が多く見られます。伊達尚宗の正室の件もそうですが、畠山氏や大石氏にもそういった事例が見られます。--[[利用者:馬屋橋|馬屋橋]]([[利用者‐会話:馬屋橋|会話]]) 2014年8月23日 (土) 17:52 (UTC)
:::私が房長の例を挙げたのは、馬屋橋さんが僧可の注でないことを理由に憲将女をテンプレート内に復活されたためであり、私の真意はあくまでも研究者が信がおけない、信憑性がないとしている戦国以前の山吉家の系譜の記事は、少なくとも注に留めるべきではないかということです。厳密に言うならば、『山吉家家譜』において別名盛久あるいは久盛と加筆のある「義長」は史料上に登場する「山吉久盛」であると研究者は比定しているのでしょうか。また管見の限り、憲将の娘は上杉の諸系図、史料には登場せず、研究者の言及もありません。他の山吉家の系譜にも見られないと思います。一部の方々がなぜこうも『山吉家家譜』にこだわって編集をされるのか、私は不思議でなりません。なお、例として伊達尚宗室や、畠山、大石氏を挙げておられますが、伊達尚宗室に関しては、長谷川伸氏の論考に詳しく紹介されてますが、伊達家にも、越後側にも縁組みの確証となる史料は存在します。女子に限らず、上条上杉氏には史料が残されているにもかかわらず現在残る系図には見られない人物が多いことは、以前から研究者によって指摘されています。畠山家との縁組みは「大乗院寺社雑事記」に房定が畠山義統と婚を通じ、越中をに侵攻しようとしているとの記事があるだけで、実際どのような婚姻関係が結ばれたかは不明とされているのではないでしょうか。大石家に関しては「木曽大石氏系図」には確かに、憲儀、顕重の母は上杉氏と記されていますが、早くから栗原仲道氏はそれについて「大石氏の研究の現状と課題」で疑義を呈しておられます。今日、その信憑性に疑問があるとして「木曽大石氏系図」は研究者によって史料批判が行われており、当時の史料集成を元に包括的追究が進められ、史料所見に基づいた系譜復元がされています。--[[利用者:Thomo|Thomo]]([[利用者‐会話:Thomo|会話]]) 2014年8月27日 (水) 18:00 (UTC)
::::いくつかの研究によって信が置けないとされているからといって、注にするのは如何なものかと思います。大雑把に言えば、両論併記で行くべきだと思っております。もしAという説に対してBという説があり、Bを採用する説が極端に少なくて信用が置けないということであれば、Thomo様のおっしゃる通りBは注になろうかと思いますが、今回はそのようなケースではないと思っております。私個人は『山吉家家譜』にこだわりはございませんが、[[Wikipedia:中立的な観点]]に照らすと『山吉家家譜』を情報源とした記述を全て本文から除くというのは不適当な編集のように思います。研究が進めば、そのあたりの是非も更に見極められてくると思うのですが。--[[利用者:馬屋橋|馬屋橋]]([[利用者‐会話:馬屋橋|会話]]) 2014年9月4日 (木) 14:13 (UTC)