「山田かまち」の版間の差分

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'''山田 かまち'''(やまだ かまち、[[1960年]][[7月21日]] - [[1977年]][[8月10日]])は、17歳で夭逝したロック少年人物。死後に遺作となった[[詩]]や[[絵画]]が発見され、それらを収めた『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(1992年)がきっかけで世に広く知られるようになった。<!--[[日本]]の[[画家]]・[[詩人]]。 (当時の彼はロックに夢中の高校生であり、受験を控えた高校生でした。彼の作品の素晴らしさは誰でも認める所ですが、当時から詩人・画家(という肩書き)だったかのような書き方は違和感があります。)-->[[群馬県]][[高崎市]]出身。
 
== 生涯 ==
幼少より絵画の才能を発揮する。小学校3年生のとき、[[東京芸術大学]]出身の竹内俊雄(後に新島学園高校の美術科非常勤講師)がクラスの担任になり、冬休みの宿題で動物の絵(約30枚)を1時間あまりで書き上げ、その作品は竹内によって保管され、貴重な作品として「[[高崎市山田かまち水彩デッサン美術館]]」に残された。
 
中学3年生の頃から[[ビートルズ]]などの[[ロック (音楽)|ロック]]に傾倒。同級生であり後に[[ミュージシャン]]として活躍する[[氷室京介]]とバンドを組んだこともあった。
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== 死後 ==
* 死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画を、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版、一躍注目を集める。
** 4回忌(81年)と13回忌(89年)に知人らに向けた小さな展覧会が開かれた。その頃はまだ無名の少年だったが、13回忌の展覧会で彼の作品に衝撃を受けた広瀬毅朗画廊によって、[[1992年]]に高崎市片岡町に「[[山田かまち水彩デッサン美術館]]」が設立され、小さな山田かまちブームが起きていた。その後、同年12月に『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』が刊行され、全国紙にも広告が載り、これをきっかけに広く世に知られるようになった。テレビでもかまち特集が度々放送された。
* [[中学校]]認定の[[国語]][[教科書]]や[[高校]]認定の[[現代社会]]・[[美術]]・[[英語]]教科書に彼の詩や絵画が掲載されている。
* [[2004年]]には彼の人生が映画「[[かまち (映画)|かまち]]」として[[映画]]化された。監督:[[望月六郎 (映画監督)|望月六郎]]、主演:[[谷内伸也]]。
* [[2014年]]、山田かまち水彩デッサン美術館が高崎市の市営施設となり、「[[高崎市山田かまち美術館]]」に改称。
 
==人気==
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== 外部リンク ==
* [http://www.y-kamachicity.takasaki.gunma.jp/docs/2014040100192/ 高崎市山田かまち水彩デッサン美術館]
 
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