「南関東公営競馬」の版間の差分

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=== 競走馬・騎手・調教師 ===
[[File:Sasaki_Takemi.jpg|thumb|永久登録となった[[佐々木竹見]]元騎手の勝負服(赤・黄山形一文字)]][[1983年]][[競走馬]]、[[調教師]]、[[騎手]]は原則としていずれかの[[競馬場]]に所属する。[[大井競馬場]]と[[船橋競馬場]]は[[競馬場]]に隣接する厩舎地区があるほか、[[大井競馬場]]は[[千葉県]][[印西市]]小林に[[小林牧場|小林分場]]を、[[浦和競馬場]]は[[埼玉県]][[さいたま市]]野田に、[[川崎競馬場]]については[[神奈川県]][[川崎市]][[幸区]]小向にそれぞれ独自の[[トレーニングセンター]]を有している。原則的に[[調教師]]は以上のいずれかで馬房を借り[[競走馬]]を管理することとなるが、[[2006年]]より調教師個人が民間より調教施設を借り受け調教することができる認定厩舎制度(外厩制度)が導入され<ref>NAR公式:2006/3/29
南関東4競馬場が外厩制度を導入 http://www.keiba.go.jp/topics/2006/0329_1.html</ref>、もとは[[高崎競馬場]]の[[トレーニングセンター]]であった[[境共同トレーニングセンター]]を始め、[[2014年]][[3月6日]]現在で合計202の馬房が外部に存在している<ref>南関公式「南関東地区認定厩舎馬房数状況」(2014年5月5日閲覧) https://www.nankankeiba.com/info/approved/ </ref>。
 
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== 歴史 ==
=== 4競馬場の開設と発展 ===
[[File:Nankan_uriage.jpg|thumb|南関東公営競馬の売得金額推移(1950年〜2013年)]]南関東公営競馬を構成している4競馬場は、いずれも[[第二次世界大戦]]終結後に建設されたものである。それぞれ直接の前身としては
* [[浦和競馬場]]→[[日本の廃止・休止競馬場一覧|粕壁競馬場]]([[1947年]]廃止)
* [[船橋競馬場]]→[[柏競馬場]]([[1952年]]廃止<ref>競馬開催は1950年2月まで。</ref>)
* [[大井競馬場]]→[[八王子競馬場]]([[1949年]]廃止)
* [[川崎競馬場]]→[[戸塚競馬場]]([[1954年]]廃止<ref>競馬開催は1950年まで。</ref>)
が挙げられる<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第2巻』地方競馬全国協会、1974年、336-369頁。</ref>。これらは少なくとも戦中の[[軍馬資源保護法]]に基づいて競馬を施行し、戦後も[[競馬法]]による公営化以前の[[地方競馬法]]時代には各都県の[[馬匹合]]によって競馬が執り行われたが、概して交通の便が悪く開催成績は低迷していた<ref>三好円『バクチと自治体』集英社、2009年、46-48頁</ref>。新興の[[公営ギャンブル]]である[[競輪]]や[[競艇]]が比較的中心部に立地していたこともあり、[[1950年]]までに[[公共交通機関]]によるアクセスが容易な現在の位置への競馬場移転が進められる。また早くも[[1954年]][[2月1日]]には[[関東地方競馬組合]]が設立され、主催者間の調整が進められる下地となった<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第2巻』地方競馬全国協会、1974年、363頁。</ref>。これにより、とりわけ八王子時代は1800万円程度だった開催1日当たりの売上が大井移転後は8600万円まで急増するなど、南関東公営競馬は順調に発展を続けていく。[[1955年]]には4場合わせて90億円ほどだった売上は5年後の[[1960年]]には200億円近くと倍増し、[[1969年]]度にはついに1000億円の大台を突破した<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第3巻』地方競馬全国協会、1974年。</ref>。
 
また、この黎明期の時代には様々な進取の施策が取り入れられている。一例として、[[1948年]][[3月]]にはスターティングゲートを、[[1950年]][[4月]]にはパトロール・フィルムを[[国営競馬]]に先駆けて導入<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第2巻』地方競馬全国協会、1974年、59-60頁。</ref>。競馬施行の公平性をいち早く担保した。馬券発売におけるトータリゼーターの導入も、[[1956年]][[9月]]の[[浦和競馬場]]の例が本邦初である<ref>同上60頁</ref>。また戦後直後は食糧増産のために馬産の再開が遅れたことから、[[大井競馬場|大井]]は[[オーストラリア]]より[[1952年]]に牝馬30頭、翌[[1953年]]にも同じく牡馬6頭・牝馬14頭の[[サラブレッド]]を独自に輸入<ref>同上363-364頁</ref>。これらの[[濠サラ]]からは[[国営競馬]]に転じて天皇賞を制した[[オパールオーキツド]]、[[ミツドフアーム]]らの強豪が現れた。またそれ以前にも[[川崎競馬場|川崎]]の[[川崎記念|開設記念]]や[[船橋競馬場|船橋]]の[[平和賞]]のように独自に特別レースを制定していた例はあったが、[[1955年]]より南関東競馬として重賞制度の運用を開始する。[[東京大賞典]]や[[金盃]]のような現在まで60回近い回次を数える[[重賞|重賞競走]]たちが、その後の数年間で相次いで創設された。
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[[競走馬]]についても、[[サラブレッド]]は高額の賞金を狙う[[国営競馬]]、[[中央競馬]]からの移籍馬がおおむね上位を形成していたが<ref>著名な移籍馬として[[タカオー]]、[[スウヰイスー]]、[[サチホマレ]]、[[オリオンホース]]、[[ヤシマナシヨナル]]など。</ref>、早くも[[1951年]]には[[川崎競馬場|川崎]]の抽選馬出身の[[キヨフジ]]が[[国営競馬]]へ移籍し[[優駿牝馬]]を制している。その後は[[ゴールデンウエーブ]]、[[ダイゴホマレ]]、[[オンスロート]]、[[タカマガハラ]]などが[[中央競馬]]へと移籍して華々しい戦績を残したほか、[[船橋競馬場|船橋]]の[[出川巳代造]]調教師が管理した[[ダイニコトブキ]]、[[ダイサンコトブキ]]らは生え抜きのサラブレッドとして[[東京ダービー (競馬)|春の鞍]]と[[東京大賞典|秋の鞍]]を制覇するなど活躍。[[1964年]]からは[[東京王冠賞]]が創設されたことで[[三冠 (競馬)|南関東三冠]]が成立したが、[[1967年]]にこれを初めて達成した[[ヒカルタカイ]]は翌年中央競馬へ移籍すると、[[天皇賞|天皇賞(春)]]で2.8秒差の大差勝ちを収めている。また[[アングロアラブ]]では早々に[[ホウセント]]、[[フクパーク]]の活躍により[[中央競馬]]に[[地方競馬]]の自由購買馬が参戦できなくなったことから、全国の地方競馬場の強豪らが賞金の高い南関東へと集まった<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第2巻』地方競馬全国協会、1974年、59頁。</ref>。[[タカトシ (競走馬)|タカトシ]]、[[ミヤマシユーホー]]、[[タガミホマレ]]、[[センジユスガタ]]などがその代表例である。中には[[トモスベビー]]、[[センジユ]]のように、サラブレッド系競走へと挑戦し勝利する名馬も表れた。
=== ハイセイコーと低迷の時代 ===
[[File:Statue_of_Haiseiko_001ja.jpg|thumb|left|ハイセイコーの銅像]][[1972年]]、[[大井競馬場]]でのちに国民的アイドルホースとして[[競馬ファン|第一次競馬ブーム]]を担う[[ハイセイコー]]がデビューする。6戦6勝で[[ハイセイコー記念|青雲賞]]を制したのちに[[中央競馬]]へと移籍していったこのハイセイコーの活躍に推されて南関東競馬も売上を伸ばし、1973年度には総売上が2000億円を突破した<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第4巻』地方競馬全国協会、1993年。</ref>。ところが、これ以後は70年代を通じて[[第一次オイルショック]]の[[狂乱物価]]によるインフレにもかかわらず額面上の売上増は鈍化し、[[1980年]]の約2445億円をひとつのピークとして減少に転じる。そして[[1984年]]には、1800億円を割るまでに落ち込んだ<ref>同上</ref>。
 
これに前後する時期は、南関東競馬にとっては難問が続いた。1961年の川崎事件<ref>1961年3月2日、川崎競馬場にて1番人気がレース前に出走を取り消したことが周知されず知らずに買ったファンがレース後に暴徒化。機動隊1000人が出動する事態となり、同年の「[[長沼弘毅|長沼答申]]」に同枠除外に関する是正勧告が盛り込まれるきっかけとなった。啓衆社『競週地方競馬』1961年3月号、9月号。</ref>のような騒擾事件は過去にもあったとはいえ、[[1968年]]には[[7月30日]]に浦和で穴馬同士の決着にもかかわらず異常な低配当であったことに端を発する300人規模の騒擾事件が発生したと思うと<ref>日刊スポーツ社『日刊スポーツ(東京)』1968年7月31日分。</ref>、その翌日には当時若干23歳ながらリーディング上位につけていた[[福永尚武]]が別件の八百長による競馬法違反で逮捕されている<ref>中央競馬の[[福永洋一]]、[[福永甲]]と大井所属の[[福永二三雄]]は実の兄弟。同上1968年8月1日分。</ref>。[[1972年]][[8月]]には大井でやはり若手騎手による八百長事件が発覚し、これ以後[[山岡事件]]で[[中央競馬]]に導入された調整ルームと同様の施策が南関東競馬でもとられることとなった<ref>同上1972年8月10日分</ref>。さらに[[1968年]]には延長を続けていた[[八王子市]]ら指定市分の開催権が消滅し、[[1969年]][[1月]]には[[美濃部亮吉]]都知事が'''都営ギャンブルを「社会的公害」として、都営の大井競馬開催を含めたその廃止'''を発表している<ref>三好円『バクチと自治体』集英社、2009年、117-118頁</ref>。実際のところ、1980年代初頭の[[船橋競馬場|船橋]]などは、特観席(指定席)を[[ノミ屋]]が占領しているようなことすらある有様であった<ref>山口瞳『競馬放浪記』新潮社、1984年。</ref>。
 
競走馬についても、[[中央競馬]]への移籍は[[カツアール]]が成功した程度であり、[[ハツシバオー]]、[[ゴールデンリボー]]、[[サンオーイ]]ら南関東三冠馬や、[[アズマキング]]などもパッとしない戦績に終わっている。[[1973年]]より中央側で[[地方競馬招待競走]]が、[[大井競馬場]]で[[中央競馬招待競走]]が施行されたが、お互いに地元では勝ち星を挙げるも相手側に乗り込むと奮わなかった。[[アングロアラブ]]については1960年代後半には他地区の地方競馬場も売上を伸ばし、とりわけ[[アングロアラブ]]のみで競馬を施行していた[[兵庫県競馬組合]]の賞金水準は南関東競馬のアラブ競走を上回るまでになった<ref>当時の南関東競馬は、総賞金のうちアングロアラブに回していたのは4割ほどだったことも格差の理由である。啓衆社『競週地方競馬』1972年5月号。</ref>。[[1972年]]には[[三冠 (競馬)|南関東アラブ三冠]]の1冠目・[[千鳥賞]]を目前に控えながら、[[タイムライン (競走馬)|タイムライン]]が2000万円もの高額で[[園田競馬場]]へと引き抜かれている<ref>同上1972年4月号。ただし、同馬は直後に関西の馬主のままふたたび南関東入りしている。</ref>。そのほか[[ミスダイリン]]や[[キンカイチフジ]]に代表されるように[[ホッカイドウ競馬|道営競馬]]や東海地区所属馬の強豪も登場し、[[全日本アラブ大賞典|アラブ大賞典]]は[[1972年]]より全国交流の'''全日本アラブ大賞典'''となって、その対決の場を提供した。一方で、[[1973年]]より同じく全国交流化された[[園田競馬場]]で行われる[[楠賞全日本アラブ優駿]]へ南関東公営競馬所属馬も遠征しており、[[ホクトライデン]]、[[トライバルセンプー]]らがこの時期の同競走を制している。
=== 打ち出される振興策 ===
[[File:Ohi Racecourse 001.jpg|thumb|ナイター開催の大井競馬場]][[1983年]]には大井で特別区公営協議振興対策協議会が<ref>公営競馬社『公営競馬』1984年11月号。</ref>、[[1984年]]に川崎でも競馬存廃検討委員会が組織される状況を受け<ref>同上。</ref>、南関東公営競馬でもいくつかの振興策が打ち出された。昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置<ref>大井競馬場での物が競馬では初。同上1984年2月号。</ref>、浦和競馬場での6枠連勝単式馬券の復活<ref>ただし、売上増の効果が無かったことから1984年内にふたたび8枠連勝複式へと戻している。同上1984年6月号、12月号。</ref>、[[大井競馬場|大井]]における電話投票の開始<ref>地方競馬場では笠松競馬場(1984年6月)を皮切りに5番目の開始。同上1985年9月号。</ref>などがその例である。そして[[1986年]][[7月31日]]には「大井競馬場の総合レジャーランド化」「イメージチェンジ」を目指し<ref>同上1985年10月号。</ref>、'''大井で日本初となるナイター競馬が開催された'''<ref>同上1986年9月号</ref>。また[[1988年]]には川崎と船橋の間で相互場外発売が始まり<ref>川崎競馬公認ファンサイト「川崎競馬倶楽部:川崎競馬年表」 http://www.kawasakikeiba.com/history.htm</ref>、1998年までに4場間での全開催場外発売が実現した<ref>特別区競馬組合編『大井競馬のあゆみ : 特別区競馬組合50年史』特別区競馬組合、2001年、245頁。</ref>。1987年には、都心部の場外として[[オフト後楽園|offt後楽園]]が開設されている<ref>同上196頁。</ref>。
 
競走面では、[[ホスピタリテイ|ホスピタリテイ]]が「ハイセイコーの再来」と騒がれ中央競馬で活躍したのを皮切りとし、[[1985年]]の[[地方競馬招待競走]]を[[テツノカチドキ]]が制すると、その[[テツノカチドキ]]を[[東京記念]]で破り[[ジャパンカップ]]へと出走した[[ロツキータイガー]]が[[シンボリルドルフ]]の2着となる大健闘。その後も[[中央競馬]]へ移籍し平成三強の一角を担った[[イナリワン]]や、牝馬ながら[[三冠 (競馬)|南関東三冠]]を制した[[ロジータ]]といった活躍馬が出現している。また[[1985年]]には川崎の[[全日本3歳優駿]]、[[全日本アラブ争覇]]が地方競馬全国交流に、そして[[1986年]]からは[[帝王賞]]が距離を2000mに短縮した上で中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となるなど、他地区との交流も進展した。[[笠松競馬]]所属の[[フエートノーザン]]が[[1989年]]の[[帝王賞]]を制したほか、[[中央競馬]]側で地方競馬所属馬に解放された[[オールカマー]]では大井・[[赤間清松]]厩舎所属の[[ジョージモナーク]]が勝利を納めている。そのほか、[[東京大賞典]]を目指して[[岩手競馬]]より短期移籍で挑戦した[[スイフトセイダイ]]や、[[カウンテスアップ]]、[[ダイコウガルダン]]、[[スルガスペイン]]など、地方競馬の他地区から有力馬が南関東へと転入して活躍した。
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一方で、[[アングロアラブ]]競走馬はその在厩数が年々減少していった。[[1985年]]を最後にかつては[[全日本アラブ大賞典]]と並びたった川崎の[[アラブチャンピオン]]が廃止されるなど競走面での縮小も続き、[[1993年]]には[[三冠 (競馬)|南関東アラブ三冠]]を構成していた[[千鳥賞]]、[[アラブ王冠賞]]も廃止されている。[[北関東公営競馬|北関東]]から転じてサラブレッドを相手に気を吐いた[[トチノミネフジ]]らの活躍馬もでたものの、中央競馬が[[1995年]]限りでアングロアラブ競馬を廃止したのと間を置かずして大井が[[1996年]]限りでのアングロアラブ競走からの撤退を発表。1996年には他3場もアングロアラブ系の重賞競走を全廃し、98年より3歳馬の新規入厩を停止<ref>「TOPICS:アラブ廃止が正式決定」地方競馬全国協会『frulong』1997年7月号、61頁。</ref>。1999年をもってアングロアラブによる競走は南関東から姿を消した。
=== 「交流元年」以後 ===
[[1995年]]より、「'''開放元年'''」と称される中央競馬・地方競馬間での交流開放が始まった<ref>NAR公式「ダートグレード競走とは?」 http://www.keiba.go.jp/dirtrace/</ref>。南関東でも[[東京大賞典]]を始め多くの重賞が交流競走に指定され、[[1997年]]からは同競走は[[帝王賞]]と併せて[[ダートグレード競走|統一ダートグレード]]によるGⅠ競走となっている。これ以後、[[ライブリマウント]]や[[ホクトベガ]]を皮切りに、数多くの中央競馬の強豪が南関東を舞台として活躍するようになった。また[[トーホウエンペラー]]・[[メイセイオペラ]]のような[[岩手競馬]]所属馬、[[アブクマポーロ]]や[[トーシンブリザード]]、[[アジュディミツオー]]、[[フリオーソ (競走馬)|フリオーソ]]といった南関東の名馬らも覇を争った。[[2001年]]から始まった[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC競走]]についても、[[2007年]]に[[フジノウェーブ]]が地方競馬所属馬で初の勝利を挙げている。
 
廃止された地方競馬場から[[御神本訓史]]([[益田競馬場|益田]])、[[森泰斗]]([[足利競馬場|足利]]→[[宇都宮競馬場|宇都宮]])、[[杉村一樹]]([[中津競馬場|中津]]→[[荒尾競馬場|荒尾]])、[[山田信大]]([[新潟県競馬組合|新潟公営]])の騎手を受け入れたが、一方で2000年代半ば以降[[内田博幸]]、[[戸崎圭太]]らリーディングジョッキーが[[中央競馬]]へと流出している。またアングロアラブ競走の廃止と統一グレード競走の新設で競走体系が大きく変動する中<ref>特別区競馬組合編『大井競馬のあゆみ : 特別区競馬組合50年史』特別区競馬組合、2001年、258頁。</ref>、[[三冠 (競馬)|南関東三冠]]を構成していた[[東京王冠賞]]が廃止されるなどしている。
 
競馬の国際化へも対応すべく、大井は[[1995年]]に[[アメリカ合衆国の競馬|アメリカ]]の[[サンタアニタパーク競馬場]]と提携<ref>TCK公式「サンタアニタトロフィー」 http://www.tokyocitykeiba.com/race/grade-race/?Date=20120801 </ref>、[[2008年]]には海外の既走競走馬の出走を実験的に認めた。[[2011年]]には[[東京大賞典]]を国際GIとした上で[[サンタアニタトロフィー]]に海外より招待馬を招待し<ref>TCK公式「サンタアニタトロフィー」 http://www.tokyocitykeiba.com/race/grade-race/?Date=20120801 </ref>、[[2013年]]からは[[韓国馬事会]]の[[ソウル競馬場]]との間で互いに[[日韓交流競走|交流競走]]を実施している<ref>NAR公式「日韓交流競走の概要が決定(11/26 大井)」 http://www.keiba.go.jp/topics/2013/1002_1.html</ref>。
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|File:20th_Kashiwa_Kinen_20080505R1.jpg|‎第20回[[かしわ記念]](勝ち馬[[ボンネビルレコード]]、鞍上[[的場文男]]騎手)
|File:Adjudi_Mitsu_O_20051229R1.jpg|‎大井競馬所属時代の[[内田博幸]]騎手と[[アジュディミツオー]]
|File:Norifumi-Mikamoto20100317.jpg|廃止となった[[‎益田競馬場|益田]]から移籍しリーディングを獲得した[[御神本訓史]]騎手
}}
 
== 馬券発売 ==