第二次世界大戦後、内地の一部と共に外地を全て喪失したため国土全てが上記の法的な意味での「内地」となったが、現在でも[[北海道]]、[[沖縄県]]を始めとする離島で、それぞれが[[本州]]、[[四国]]、[[九州]](北海道以外では北海道も含む)を指して「内地」と呼ぶ。
ただし北海道では公庁や教育現場・報道などでは北海道の域外について「道外」という表現を用いることもある。もっとも明治初頭以前は別の問題があり、[[北海道開拓使]]は明治6年(1873年)6月に公文書上で「内地」という用語の使用を禁じ、「府県」の使用を通達した<ref>明治34年『殖民広報』1号掲載の「内地と云ふ用語」に記述。桑原真人「北海道の経営」『岩波講座日本通史第16巻 近代Ⅰ』岩波書店、356頁。</ref>が、一般にはその後も広く「内地」が使われ続けた歴史がある。
一方、沖縄県では青年に顕著であり、[[沖縄方言]]などの「[[大和 (曖昧さ回避)|やまとぅ]]」と呼ぶ概念にほぼ相当する。より直接的にナイチャーという表現もある([[ウチナーヤマトグチ]]の項を参照)。しかし、報道や官公庁などでは「県外」という表現(例:県外移転など)が用いられている。
これらについては上記の地域([[本土復帰]]以前で[[アメリカ合衆国による沖縄統治|米軍統治時代]]の沖縄、[[小笠原諸島|小笠原]]を除いて)は戦前より行政組織・機関及び法的にも「内地」と位置付けられており、法的な意味で「外地」であったことはないため、公には用いられない俗語的用法である。
ただし、北海道は江戸時代には、和人(シサム)の植民者集団([[道南12十二館]])の棟梁に起源をもつ[[松前藩]]が、渡島半島南部の[[和人地]](松前地)を拠点に、アイヌの居住地である[[蝦夷地]](和人地以外の北海道・千島列島及び樺太)に収奪的交易を伴う植民地支配的な間接統治を行っており、江戸時代も後期になってようやく[[江戸幕府]]の直接支配下に置かれ、明治維新以後は和人入植民者が本格的に北海道を開拓した。
沖縄は元来近世以前は[[琉球王国|琉球国]]の統治下にあったが、薩摩藩による侵攻と、その後の間接統治によりヤマト勢力の政治下に入るった。その後、廃藩置県を経て完全に日本に統合されたのは明治期の[[廃藩置県]]による。その後[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治時代]]で一時日本と切り離されるが、日本に復帰し、今に至る。
かかる経緯を持つ北海道や沖縄は、近世でより本州側勢力への従属・間接的従属・植民地支配統治下にはあったものの、近代になって、初めて正式・完全な形でヤマト勢力日本国家の支配下に入った地域である点では、上記法的な「外地」と共通する面を持つ。住民意識としてもそれが反映されており、北海道や沖縄の住民が「内地」という用語を用いるのは、法的な位置づけの面では事実と反しているが、歴史的経緯としてはそれなりの理由がある。
その他、[[国内留学]]を「内地[[留学]]」と呼ぶ例がある<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t20020125002/t20020125002.html 平成一四年度特殊教育内地留学生の派遣申請について]</ref>。
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