「故意四球」の版間の差分

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=== 故意四球を意図した投球を安打にした例 ===
* {{by|1960年}}の長嶋茂雄(巨人)は、1シーズンだけで3度も、故意四球を意図した投球を打って安打にしている。長嶋はこの他にも故意四球を受けることが多かった打者であり、<!--満塁時にも故意四球にされたことがある。(宇佐美徹也さんの本でも満塁敬遠はないように読めます)-->度重なる故意四球策に反発して[[バット (野球)|バット]]を持たずに打席に入る(それでも故意四球が与えられた)など、エピソードは数限りない
* {{by|1981年}}7月19日、[[柏原純一]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]])が[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦で故意四球を意図した投球を本塁打する。投手は[[永射保]]。
* {{by|1990年}}6月2日、[[ウォーレン・クロマティ]](巨人)は広島戦で、明らかに故意四球を狙った投球を打って[[サヨナラゲーム|サヨナラ]][[適時打]]にし、勝利を得た。投手は[[金石昭人]]。
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* {{by|1950年}}に行われた[[1950年の日本シリーズ|第1回日本シリーズ]]第6試合において、毎日が[[松竹ロビンス]]を4点リードした場面で毎日の2番手投手として登板した[[若林忠志]]は、その試合で既に2本の本塁打を打っていた松竹の[[岩本義行]]を、無死満塁から故意四球にした。結局、毎日はそのイニングを敬遠による押し出しと犠飛の2点に抑え、この試合は毎日が1点差で勝利し(サヨナラ)日本シリーズにおける初の優勝チームとなった。
* {{by|1955年}}3月26日、榎本喜八(毎日)はプロ1年目の開幕戦にて五番打者としてデビューした際に、その試合の4打席目に故意四球を受けた。
* {{by|1968年}}5月11日、長嶋茂雄は[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で[[故意四球|敬遠]]策を採ってきた[[山中巽]]投手に対して、抗議の意を表してバットを持たずに打席に入った(打撃を行うことは当然できないが、ルール上は問題ない)。しかし、山中はそれでも敬遠四球を与えた。
* [[駒田徳広]]は高校([[奈良県立奈良情報商業高等学校|桜井商業高校]])時代に強打者として恐れられ、イニング先頭打者や満塁の場面で故意四球にされたことがある。
* {{by|1992年}}の[[第74回全国高等学校野球選手権大会]]で、松井秀喜([[星稜高等学校・中学校|星稜高校]])は、[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]との試合で5打席連続の故意四球を受けた([[松井秀喜5打席連続敬遠]])。このことは[[高校野球]]の教育的見地なども絡んで、大きな社会的議論を巻き起こした(捕手が座った状態での四球だったため、公式記録では「故意四球」ではなく単なる「四球」となっている)。