「福西志計子」の版間の差分

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かつて高梁教会によって幼少期の虐待から救い出され、福西に匿われながら青年期を過ごした[[留岡幸助]]<ref>倉田,2006年、p169</ref>は、自著『信仰美談』において、福西を日本キリスト教の歴史上において[[細川ガラシャ]]、[[丹波ノブ]]に並ぶ「信仰の人」であると評した。<ref>倉田,2006年、p172</ref>留岡にとって福西は信仰上の姉分にあたるため、身内贔屓の側面は決して否定できないが、それを勘案してなお留岡は福西の信仰の姿勢を高らかに褒め称え、順正女学校の設立と以降において女学校が優秀な人材を輩出していった成果を「信仰の力」と評している。<ref>基督教新聞。明治31年9月2日発行、第789号より(倉田,2006年、p173)</ref>
 
[[1880年]]に[[新島襄]]の高梁での伝道を聞いた福西は、そこに幼い頃より方谷を通して体感していた至誠惻怛の精神、すなわち「博愛主義」や体感していた「平等主義」が体現されている事に気付く。未だ高梁という地の当時の価値観においては異端であった、その考えを肯定してくれる、この教えは福西にとっては正真正銘の福音であったとも言われる。以降、福西は真摯に、この信仰と向き合う事となった。
 
明治期に高梁において起こった3回の反教運動<ref group="注">高梁では明治17年に3回、反教運動が起こっている。うち1回(明治17年7月17日)は教会への[[投石]]と共に、地元の児童に反キリスト教の言葉(いわばキリスト教に対する[[ヘイトスピーチ]])を叫ばせ教徒たちの社会性と人格(いわば土地における生存権)を完全に否定するという苛烈かつ悪質なものであった。(倉田,2006年、p104)</ref>を超え、公職を追われてなお棄教に至らなかった福西の信仰への姿勢は疑いようが無いとされる。
 
=== 高等教育への理想と結末 ===