「王玄謨」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[後漢]]の司徒[[王允]]の一族[[王宏]]<ref name="aa">『[[後漢書]]』[[郭泰]]伝注が引く謝承の『後漢書』、『後漢書』王玄謨によれば、王宏(字は長文)のこととされる。</ref>の子[[王凌]]の六代の孫に当たる。王秀の子として生まれた。幼くして父を失い、族父の王蕤に養育されて、「この子は気概高亮にして、太尉の彦雲([[王凌]])の風あり」と評された<ref>『[[宋書]]』王玄謨伝< name="aa"/ref>。
 
[[劉裕]]が[[徐州]]にいたとき、玄謨は召し出されて従事史となった。[[424年]]([[景平]]2年)、[[謝晦]]が[[荊州]][[刺史]]となると、玄謨はその下で南蛮行参軍・[[武寧郡]][[太守]]となった。[[426年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]3年)、謝晦が敗死したが、玄謨は主要な部将ではなかったため罪に問われず、原職にもどされた。元嘉年間、長沙王[[劉義欣]]の下で鎮軍中兵将軍となり、[[汝陰郡]]太守を兼ねた。玄謨は[[北魏]]に対する[[北伐]]の策をたびたび上奏したが、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]に聞き入れられなかった。[[447年]](元嘉24年)、興安侯劉義賓の下で輔国司馬・[[彭城郡]]太守に任じられた。[[448年]](元嘉25年)、劉義賓が死去すると、玄謨は彭城が水陸の要地であるとして皇子の赴任を求め、文帝は武陵王[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]を徐州刺史として派遣してきた。
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同年([[泰始 (南朝宋)|泰始]]元年)12月、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]が即位すると、玄謨は鎮軍将軍の号を加えられた。足の病のため輿に乗って宮城を出入りすることを許された。[[466年]](泰始2年)、明帝即位に対する反乱が各地で起こると、玄謨は水軍を統括して南方の反乱を討った。2月、[[車騎将軍]]・江州刺史に任じられた。建安王[[劉休仁]]を補佐して赭圻で勝利し、報賞として[[諸葛亮]]の筒袖鎧を賜った。9月、左光禄大夫・[[開府儀同三司]]となり、護軍将軍を兼ねた。11月、車騎将軍・[[南豫州]]刺史に任じられた。[[467年]](泰始3年)5月、また左光禄大夫・開府儀同三司となった。7月、特進・護軍将軍を兼ねた。8月、車騎将軍の号を加えられた。[[468年]](泰始4年)2月、死去した。享年は81。[[諡]]は荘公といった。
 
長子の王深は早逝し、次子の王寬と末子の王瞻がいた。王瞻は[[南斉]]に仕えたが、政争に巻き込まれて殺害された。
子の王深は早逝した。
 
== 脚注 ==