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歴代天皇の中で初めて太上天皇の尊号が初めに贈られたのは、[[持統天皇]]であったが、その後は[[寛仁]]元年([[1017年]])[[8月9日]]、[[三条天皇]]の第一皇子で皇太子であった、[[敦明親王]]がときの[[左大臣]][[藤原道長]]のために皇太子の位を辞退させられると、道長の計らいにより、'''小一条院'''の[[院号]]が贈られるなど、平安時代以降となると天皇に列していない皇族に対して、[[准太上天皇]]の処遇が贈られる例が見られるようになった。その後、[[鎌倉時代]]には、[[承久]]3年([[1221年]])、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が[[鎌倉幕府|幕府]]から政治の実権を取り戻すべく、[[北条義時]]追討の[[院宣]]を発し、幕府方との合戦に敗れると、後鳥羽上皇、[[順徳天皇|順徳上皇]]([[土御門天皇|土御門上皇]]は自らの意向で)が配流され、また、[[仲恭天皇]]は廃位となった。このため、次なる皇位には[[高倉天皇]]の第二皇子 [[守貞親王|行助入道親王]]の第三王子 茂仁王が擁立され、[[後堀河天皇]]となったため、天皇の実父たる[[法親王|入道親王]]は、[[治天の君]]として[[院政]]を行うこととなり、朝廷から後高倉院の院号が贈られることになった。
 
その後、[[室町時代]]には、[[応永]]15年([[1408年]])[[5月6日]]、[[室町幕府]]三代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]に対して'''太上法皇'''の尊号を贈られようとしたが、その世子 四代将軍[[足利義持]]の辞退により、これは沙汰やみとなった。[[文安]]4年([[1447年]])には[[世襲親王家]]のひとつ[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王|貞成親王]]に'''後光院'''の院号が贈られたが、これは時の[[後花園天皇]]の実父たるをもっての追尊であった。しかし、翌5年([[1448年]])に[[親王]]は院号を辞退している。
 
また、[[江戸時代]]に入ると、[[光格天皇]]が実父 [[閑院宮典仁親王]]に太上天皇の尊号を贈ろうとし、[[江戸幕府]]の反対を受けて論争に至る、[[尊号一件]]という事件にも発展した。この折は尊号の追尊は沙汰やみとなったが、[[明治]]17年([[1884年]])、になり、明治天皇の高祖父にあたるという理由から、典仁親王に'''慶光天皇'''の尊号が贈られた。