「赤尾清綱」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[永正]]11年([[1514年]])、誕生。[[赤尾氏]]は近江の国人で、元々は[[京極氏]]の傘下であったが、後に[[海北綱親|海北氏]]や[[雨森氏]]と並ぶ「浅井三将」に数えられた。清綱は近江浅井初代[[浅井亮政]]の頃から浅井に仕え、浅井家と興亡をともにし人物である。当主からの信頼がとりわけ厚く、[[小谷城]]内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館をもち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に武家屋敷を持ち、そこを居館とするものだが、城内に居館を持つのを許されていたことからおり相当その信頼のおける人物であったこと厚さが窺われる。
 
<!--亮政の活躍を目にしていただけに2代目久政の気弱さにほとほと落胆していたと言われ、-->亮政の子の[[浅井久政|久政]]の代には、浅井[[遠藤直経]]らとともにその子・[[浅井長政|長政]]への家督委譲と久政の隠居を計画、久政が城を出た隙に小谷城を占拠し、長政への家督委譲を認めさせた<ref>この家督交代劇は、[[武田信虎]]から家督を奪い取った[[武田信玄|武田晴信]]らの行動と似てはいるが、信虎が生涯[[躑躅ヶ崎館]]への帰還が叶わなかったのに対し、久政は長政や家臣らと和解し、すぐに小谷城へ戻っている。</ref>。長政が当主となった頃には老齢合戦の表舞台に出ることはなかったため主に軍目付的な存在として陣中に赴いていたという。また、亮政が[[六角氏]]との攻防により一時越前に退避、[[朝倉氏]]と同盟を結び再起を図ったという経緯から、家中では朝倉寄りの立場を取りつづける。浅井家3代にわって仕えてきた人物だけに、朝倉との関係も非常に深かったのであろう
 
[[天正]]元年(1573([[1573]]、[[織田氏]]との戦いに敗れ、[[小谷城の戦い]]で切腹したと、『[[信長公記]]』巻六に記されているなお、嫡子虎千代(後の[[赤尾清冬]])の命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて[[織田信長]]直々に助命したといわれている。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==